2010年7月12日月曜日

いわて演劇通史58

昭和五十六年末をもって北点画廊という拠点を失う劇団赤い風は、同年二月から上演してきた三部作「北街物語」の一作目「~血のフォーカスタウン~」二作目「~風の巡礼たち~」に続く三作目、「最終編~地上とは思いでならずや~」を昭和五十七年二月、伊藤楽器ホールで上演する。
「血のフォーカスタウン」は、北点物語、「風の巡礼たち」は盛岡市中央公民館と花巻市文化会館中ホールで上演していた。この頃から赤い風の新たな劇空間開拓へのチャレンジが始まる。ほとんど二十歳代の若い劇団員にとって、低額に押さえられているとはいえ設備の整っている県民会館中ホールの会場使用料は決して安くない。ちなみに、昭和五十五年、五十六年当時の盛岡市内の演劇公演概況をさらってみよう。
五十五年の活動で最も活発だったのが九月とアウラーである。「ブラームスはもう似合わない」(二月、県民会館)「ある雨の朝突然に・・」(十月、盛岡市中央公民館)「ザ・ワープ」(十一月、岩手教育会館)と三本の本公演のほか、「人魚姫」で一関(四月)、盛岡(六月)、大船渡(十一月)の移動公演を実現させた。結成十周年の五十六年も活発で、「ぼくのピーターパン」(三月、一関)「I LOVE ドラキュラ」(七月、善隣館)を記念公演として行った。
亜季は五十五年「女学生」(三月)と「ゴンの贈り物」(十一月)、五十六年「智恵子抄」(十二月)をいずれも県民会館で上演、舞酔は五十五年「誤解」、五十六年「思い出を売る男」「石川啄木」を上演している。両劇団とも県民会館職員がリーダーであることもあり、県民会館を主な公演会場としている。
昭和五十四年の赤い風結成から帯の会が誕生する五十八年頃までの間、盛岡の演劇は、九月とアウラー、亜季、舞酔、赤い風の四劇団の活動を軸に回っていた。他の新しい集団は結成公演こそ実現するが、次回公演につなげるところはほとんどなかった。
四劇団はミュージカル、新劇、小劇場演劇と上演傾向は様々だったが、いずれもリーダーが昭和二十年代生まれという共通項があり、強烈なライバル心でしのぎを削っていた。当時の各劇団の代表もしくは演出者等は「九月とアウラー」は宮川康一、 浅沼久、藤原正教、峰川進一、「亜季」は田村隆、佐藤英也、「舞酔」は石沢信司、「赤い風」はおきあんご、沢藤久司、坂田裕一、工藤森栄らであり、三十年後の現在まで、約半数の者が現役の演劇人として活動を続けている。彼らの先輩格の演劇人は当時、ほとんど活動から離れている。いわば現在の盛岡演劇界の系譜は、詩人部落などの戦後演劇の系譜と決別し、この時期にはじまったと言ってよいだろう。
ここで話を赤い風の新たな演劇空間探しに戻そう。
伊藤楽器ホール(盛岡市中央通り)で上演した赤い風は、同時に本町通りの裏通りにアトリエを構え、五十七年八月に初めての既成作品をアトリエ公演として上演する。当時の人気作家つかこうへいの「出発」と岸田戯曲賞を受賞したばかりの北村想の「寿歌」で二十二日から二十九日まで各三ステージ六回公演で、両公演も満員御礼が続いた。勿論、三~四十人も入れば満杯の狭い稽古場公演だが、新しい自前の拠点での講演で熱気にあふれていた。
しかし、県民会館のような設備の整った近代劇場での演劇上演を目指す活動が主流からはずれ、小劇場演劇が一般的になるにはまだ時間を要する。

いわて演劇通史57

北点画廊では、赤い風以外に来盛劇団の公演も行われた。
昭和五十四年十二月には元劇団変身の俳優、坂本長利の一人芝居「土佐源氏」が行われる。土佐源氏は公演数百回以上を数える当時の現代演劇の代表的な作品である。
五十六年六月には唐十郎の状況劇場とたもとをわかったアングラ演劇の創始者のひとり笹原茂朱が率いる劇団夜行館の密室芝居「幻灯荘」が行われる。夜行館は当時、弘前市に拠点を置いていた。公演には青森市のダビオン劇場の牧良介が特別出演している。
さらにその一ヶ月後の七月、北点画廊の観客動員を大きく塗り替えた公演が行われる。黒テントの赤いキャバレー公演「宮沢賢治旅行記」である。演劇センター六八/七一はその頃、六八/七一黒色テントの名を変えており、テント公演以外の小編成公演を「赤いキャバレー」と称していた。
この宮沢賢治旅行記「セロ弾きのゴーシュ」や「北守将軍と三人の兄弟医師」などの作品を地の文を含めほとんどまるごと台詞化するという「物語る演劇」の手法で話題を集めた。特にもベテラン村松克己の隙のない語りと、花形女優の金久美子(後、新宿梁山泊に参加)の美しい透明感は、それまでの賢治演劇のイメージを大きく変えた。照明は水銀灯二本のみ、舞台装置はほとんどなしという演出は、小劇場ならではのスタイルで、演劇は劇場に支配されることなく、どこでも演劇を行おうと思えば劇場になれるという小劇場演劇の論旨そのものであった。
作品は二日間上演され、実に三五〇人もの観客であふれた。当時、オーナーの協力で画廊の控室の壁を取り払い、幾分キャパは広くなっていたもののやはり一ステージ八〇人くらいが限界のスペースだったが、それを大きく超え、一回で百数十人が入場したのである。さすがに床の心配をした。
北点画廊のオーナーにはギャラリーとして利用の合間に公演会場として使わせて欲しいとのお願いだったが、この頃になると盛岡における小劇場演劇の拠点在京の演劇人や地元の報道機関に知られるようになってきていた。そのことが、一部美術関係者の不興を買ってしまった。「本来の画廊の使い方とは違う」という指摘はそのとおりである。やがて、オーナーの家庭の事情もあり、昭和五十六年末をもって北点画廊を公演会場で使うことはできなくなる。
しかし、この会場の公演活動の意味は大きい。約三年間の間、盛岡における小劇場演劇は市民権を得た。同時に、前号で記したように会場での交流を通じて、演劇人同士、多ジャンルとの交流が進んだ。
「ホールは表現を管理する場ではなく、広場である。かつて祭りが行われていた町や村の広場や神社の境内のように、多様な人種、表現が交りあい、表現をつくりあげる現代の広場である」
文化の言葉が通じない管理型ホールに反発し、黒テントの佐藤信が後に語って世田谷パブリックシアターの基本構想となり、盛岡劇場草創期十年の「演劇の広場づくり」の哲学ともつながるこの言葉の原点がここにあった。
この三年間で、赤い風より若い劇団では、九月とアウラーに所属していた浅沼徹が「劇黒あいらんど」を立ち上げ、寺山修司の「邪宗門」に挑戦した。やはり小劇場志向の集団で、やがて赤い風に編入する。高校演劇の系譜では「ありじこく」「彦組と親衛隊」の二グループが誕生した。

いわて演劇通史56

和四十八年六月の演劇センター六八/七一(現・劇団黒テント)の「さよなマックス」(作・山元清多)の盛岡初公演(八幡宮境内のテント公演)はわずか七十人の入りだったが、その後の黒テント公演は佐藤信の作・演出による「阿部定の犬」「キネマと探偵」(昭和五十年)、「キネマと怪人」(昭和五十二年)で、いずれも三〇〇人ほどを集客した。
黒テントの公演以降、昭和五十四年四月の劇団赤い風の「北点画廊」における旗上げ公演までの間、盛岡の劇団の非ホールでの公演は、新聞紙上での記録のかぎりでは昭和五十三年五月「演劇集団九月とアウラー」のロックミュージカル「ノアの箱舟」がヤマハ音楽センターで行われたのみである。ノアの箱舟は赤石俊一の作、浅沼久の演出で、上演時間は短かったが、3日間8ステージの強行スケジュールだった。会場の音楽センターには桟敷席が組まれテント劇場風の雰囲気を醸し出し精力的な舞台ではあったが、脚本自体は決して小劇場演劇を志向した作品ではなかった。
昭和五十四年四月の赤い風の旗上げ公演「バアーン」は、作品、舞台装置、演技スタイルまで俳優と観客の息遣いを共有できる小劇場演劇を志向したものだった。
座付き作家のおきあんごは寺山修司の天井桟敷出身であり、創始者の一人である私は学生演劇で唐十郎の強い影響を受けていた。また、二人とも黒テントの運動論を共有していた。数年の年の違いはあるが、なによりも東京の小劇場演劇の影響を強く受けている。他の仲間も演劇研究会「舞酔」で小劇場演劇のバイブル的作品ともいえる唐十郎の「少女仮面」を手掛けている。立派な近代ホールに寄り添って、古い形のリアリズム演劇に固執し活動をやめていく盛岡の老舗劇団にアンチテーゼを示そうとする意欲に満ちていた。
当時の若手劇団は九月とアウラー、亜季、舞酔の三劇団で、アウラーは舞台会社が支え、亜季と舞酔は県民会館職員が中心となって誕生した。いずれもホール上演できるスタッフ力を保持していた劇団なのである。反面、赤い風は作家と俳優中心の集団で、ホールを使いこなすだけのスタッフや集客力、経済力を持ち合わせていなかった。それゆえの小劇場の選択だったことも否めない。
北点画廊は、本町通りの肉屋の三階にあった。あまり使われていない画廊だったが、オーナーの理解で格安の料金で借りられた。画廊の天井高は三メートル弱。ミニライトなどを吊るすことができる格子状の金属枠が天井に張られていた。広さは七~八メートル四方だろうか。狭い演技エリアを除くと五十人も入れば満杯だった。
舞台照明設備はなく、当時県民会館の舞台技師だった劇団亜季の佐藤英也が家庭用のコントローラーと古いライトを活用して支援してくれた。
旗上げ公演から昭和五十六年の三カ年で赤い風は本公演では四回北点画廊で公演している。集客数も旗上げの6ステージ120人ほどから、コンスタントに2~300人ほど集めるほどになってきていた。小劇場ならではの舞台と客席が判然としない演出方法や終演後にかならず行われる車座になっての観客との意見交換が支持されたのかもしれない。詩人や美術家など演劇人以外との交流もそこから生まれてきた。特にも「詩誌百鬼」のグループとは、交流が深まった。後に赤い風の座付き作家となる工藤森栄、第三回公演の脚本を担当する藤原美幸や新田富子らである。

いわて演劇通史55

昭和五十四年四月の劇団赤い風の「北点画廊」における旗上げ公演は、以前にも記したとおり、盛岡における小劇場演劇の本格的な始動を意味するものだった。ここでは、あらためて「劇場・ホール、演劇の場」からの視点で、赤い風結成からAUNホール開設(昭和六十三年十月)までの約十年間を数回にわけて検証してみたい。
今回は、その前記録・予兆について述べてみたい。
新聞紙上の記録でみると、赤い風の旗上げ公演前の小空間での公演は、昭和四十四年三月の「ぐるーる・de・あんべ」の喫茶店「花の木」での公演まで遡るが、これが契機となって小劇場演劇が広がったという気配はない。
この頃東京では唐十郎の状況劇場(紅テント)、佐藤信・山元清多らの演劇センター(黒テント)、鈴木忠志の早稲田小劇場、寺山修司の天井桟敷などの活動が華やかに伝えられ、新しい演劇、新しい演劇の場づくりが猛烈な勢いで広がり、もはや実験ではなく、新しい潮流となっていた。
近代劇場という演劇の場は、劇場のルールが上演スタイルを束縛し、鑑賞者の組織化で演劇の可能性をもついばんでしまう、というのが新しい演劇の旗手たちの主張だった。額縁舞台に代表される「演じる側」と「見る側」を厳格に区分するスタイルは演技・演出の自在さの束縛を意味し、そこからの脱却は、築地小劇場以来の日本の新劇スタイルからの脱却をも意味していた。勿論、劇場はほとんど千人規模のホールで、長期の予約が多く、一定以上の観客数を集める力がなければホールを押さえることができず、数百人の手頃なホールにしても既に、大手の新劇の劇団に押さえられ、若手の公演活動が制限されていたという現実が、当時の社会変革の激しい運動と相まって、新しい演劇の動きを誕生させた要因となったことも否めない。
「花の木」での試みが、盛岡の流れにならなかったのは、盛岡の演劇人の多くに昭和四十八年に予定されている県民会館のオープンを待望する声が強かったことと、東京の演劇状況がダイレクトに盛岡に伝わってこなかったからと推測できる。
盛岡の演劇人が東京の新しい演劇の流れを直接体験するのは昭和四十八年六月の演劇センター六八/七一(現・劇団黒テント)の「さよなマックス」(作・山元清多)の盛岡公演(盛岡八幡宮)だった。大学の演劇研究会に属していた私はこの公演を東京三鷹で見ている。初めての黒テント体験だった。
八幡宮の黒テントに集まった観客はわずか七〇名ほどだったという。詩人の高橋昭八郎、九月とアウラーの宮川康一、後に赤い風の結成に加わる「おきあんご」らがそこにいた。劇団(演劇センター)の制作担当は俳優の斎藤晴彦で、東北各地を周遊券でオルグに回り、地元の演劇人の家を泊まり歩いた。公演を支えた盛岡の関係者は公演の準備から当日まで、黒テントの仲間たちと夜を徹して語り合った。そこには、公演を「買う・売る」という従来の関係は成立しない。勿論、観客を鑑賞組織化することもない。
劇団黒テントと盛岡の関係は、今なお、同時代演劇の協働者という関係で持続している。黒テントという移動劇場は、盛岡に東京の演劇状況をダイレクトに持ち込んできただけではなく、盛岡の演劇状況に新たな流れの源流を生み出した。

いわて演劇通史54

劇団帯の会(平成二十一年十月十日解散)の結成を前にした昭和五十五年から五十七年は、若手劇団が覇を競うような勢いで上演活動を続けていた。特にも熟成期に突入した「九月とアウラー」と「亜季」、急激に観客動員を増やしていた「赤い風」の活動が顕著だった。また、県内では遠野、花巻、北上などの市民劇場が注目を浴びていた。
当時の記録を盛岡の劇団の活動を中心にさらってみよう。
九月とアウラーは、五十五年「ブラームスはもうにあわない」と「ある雨の朝突然に・・・」「ザ・ワープ」「しあわせの王子」の四本、五十六年は「ぼくのピーターパン」と「I LOVEドラキュラ」、五十七年は「桜散る春の風と思いきや」と「フライ フライ フライ」を県民会館、教育会館、中央公民館、善隣館など多様な会場で展開した。実にすさまじい公演数である。うち五本の脚本を藤原正教が手掛けている。これまでは既成作品か外部依頼の作品上演であったので、待望の座付き作家の誕生である。藤原に呼応するように演出の浅沼久も脚本を手掛ける。藤原のウェルメイドの作品もそうだが、特に浅沼の「桜散る春の風と思いきや」(会場・中央公民館)は斬新な舞台構成と人間の深層に切り込む男女の愛憎をテーマにした作品で、ミュージカル劇団という冠を脱したかのような意欲的な活動だった。
亜季は、五十五年「女学者」「ミュージカル・ゴンの贈り物」、五十六年はモダンダンスと朗読を組み合わせた舞台「智恵子抄」。五十七年は清水邦夫の代表作「ある愛の一群たち」「楽屋」を上演した。亜季は岩手県民会館職員を中心とした劇団で発足したが、ジャンルにこだわらない芝居づくりで、高校演劇出身者やOLなど外からの参加者も増えていた。しかし、昭和五十七年には県民ミュージカル「サウンドオブミュージック」を仕掛けるため代表だった田村隆が退団し、佐藤英也が代表を引き継ぎ、劇団の志向もどちらかというと手堅いオーソドックな現代劇に傾斜する。
赤い風は、五十五年土井晩翠賞を受賞したばかりの詩人・藤原美幸に戯曲執筆を依頼し、「世情虚実徒花怨滴命暫(よはなさけうそもまこともあだのはなうらみしたたるいのちしばらく)」を上演。五十六年は座付きのおきあんごを中心にした劇団員共作の「北街物語・血のフォーカスタウン」「北街物語・風の巡礼たち」を上演、初の遠征公演(花巻市)も行なった。五十七年は「北街物語・地上とは思いでならずや」「初志貫徹夜会」の本公演のほか、初のアトリエ公演「寿歌」「出発」の四本を上演した。座付きのおきあんご、創設メンバーの沢藤久司、坂田裕一のほか五十六年から参加した詩人の工藤森栄や新人・赤坂安盛を含めた複数の作・演出による集団的創造活動の展開である。赤い風で特筆されるのは、次々に非劇場空間を新しい演劇空間としを見つけ出すことである。初期の北点画廊で始まり、伊藤楽器ホール、中央公民館、カワトクダイヤモンドホール、稽古場(アトリエ)とこの三年間で新しい演劇空間を開拓し、その後はC&Aホールや中三AUNホールの開設に参加するほか、野外公演にも挑戦する。
他では「舞酔」が年一回の公演を手堅くまとめたほか、五十六年は「彦組と親衛隊」「ありじごく」の新しい劇団が発足したが、長続きしなかった。

いわて演劇通史53

成二十一年十月十日(土)の岩手芸術祭公演を最後に「解散します」という連絡が劇団帯の会からあった。
この欄で「帯の会」のことについて記述するのはもう少し先になる予定だった。帯の会自身による初公演は、昭和五十九年(一九八四年)十月だからちょうど二十五年、四半世紀におよぶ活動だった。帯の会にかかる本格的な検証については、後日、関係者の話も伺いながら行うこととして、ここでは発足当時の概況を記してみたい。
前年の昭和五十八年、活躍中の若手演劇人と休業中の演劇OBたちが一緒につくりあげる舞台の呼びかけが始まった。当時県民会館職員だった斎藤五郎氏、劇作家の小林和夫氏(花巻市・故人)、放送劇で活躍する木村淳氏、小野寺瑞穂氏らが中心となったものだ。この構想は同年十月の「白萩の庭」公演(原作・太田俊穂、脚本・小林和夫、主催「白萩の庭を成功させる会」)として結実する。しばらく舞台から遠ざかっていた熟年俳優たちが「帯の会」を結成し公演の中核となり、当時活発な活動を展開していた二十歳代から三十歳代中心の「九月とアウラー」「赤い風」「亜季」らの劇団員も参加した。
赤い風の私もこの公演に役者として参加した。OBたちとは声の出し方から本の読み方まで、方法論がまるで違うことには驚いた。いわゆる新劇=リアリズムとも微妙に違う「盛岡の戦後演劇」に出会った。抑制された台詞術、キーワードとなるセリフの繰り返し、執拗に自ら名前を名乗ることなどは、後に、それは「耳だけで聞く演劇」放送劇に培われた手法であることがわかった。HNKラジオの「伸びゆく若葉」やIBCのラジオドラマが盛岡の演劇に大きな影響を与えていた。革新的な小劇場演劇の洗礼を受けていた私たちは大仰な身振りの演技や感情におもむくままの大声での独白には慣れてはいたが、微妙な人間関係を成立させる抑制された会話術の妙は新しい出会いだった。
会場となった県民会館には多くの観客が集まり、IBCテレビでは録画中継も行われた。この公演の成功が翌年十月の「劇団帯の会」(代表・木村淳)の自主的な旗揚げ公演「ふれあいの園」(作・演出、佐藤竜太)につながる。
「帯の会」はOBの会をもじったもので、ベテランと若手を結ぶ「帯」という意味も持つ。
この昭和五十八年は、様々な意味で盛岡の演劇界にとって忘れることができない年だった。
まず、三月に老朽化した旧盛岡劇場が取り壊されて「新盛岡劇場」建設運動が始まった。詳細については別号で記載するが、地域住民、演劇関係者、市民運動家、商店街関係者、盛岡芸妓衆らの複合的かつ自主的な運動だった。
同月、県の演劇団体連絡協議会の主催ではじめて演劇ワークショップが開催され、黒テントの山元清多氏が指導した。山元氏が指導した「物語る演劇」の手法は、翌月行われた「蛾と笹舟」などの小説の舞台化として劇団赤い風の演出術の一つとして継承される。山元氏はこれを契機に盛岡の様々な演劇シーンに指導者・協働者として関わりを持つことになる。
四月には元IBC岩手放送のアナウンサーだった畑中美耶子さんが積年の夢だった盛岡子供劇団「CATSきゃあ」を誕生させた。

いわて演劇通史53

昭和五十三年一月四日付けの岩手日報に「県演劇界の展望」と題する特集記事が載った。戦後三十年の県演劇界の流れを概観しながら、その課題と展望を探った記事だ。 
 特集では、待望の岩手県民会館が誕生(昭和四十八年)した後、県演劇界は「中央劇団来演という時代的風潮を反映して、創造する舞台から見せる舞台へと変ぼうする傾向も見られ、演劇創造活動の再検討を求められている」とまず、リード記事でその課題を指摘。県民会館完成に刺激され結成された亜季、舞酔の二つの劇団が「見せる舞台」に力量を示したが、今後に残るもの、という点では疑問が多い、と断じた。さらに、総じて演劇界の役者不足、若者の演劇離れの課題も挙げられ、地域にねざしたテーマの作品づくりへの提唱や、若手とベテラン、地域間の交流を説く当時の演劇界のリーダーたちの動きを伝えている。その中で、若手劇団として活発な活動を展開していた九月とアウラーの代表(当時)宮川康一氏は、次のコメントを寄せている。
「演劇は本来芸術活動であるから、多様な特色を持つ劇団が多いほどよい。それぞれ上演目的があり、各団体で異なっているのだから拘束的な大同団結は疑問であり、書き手、役者は劇団内で育成すべきもの」
 正論である。演劇人口が極めて少ない当時の現状を考えるとまず、演劇人たちがしなければならなかったのは、安易な合同公演の類ではなく、演劇の可能性のウイングを広げるとともに、人材を育成する環境づくりを行うことだった。当時から着実な活動を続け、今なお健在な活動を展開している湯田のぶどう座、宮古の麦の会は、座付きの作演出家の存在が大きい。盛岡の雄だった詩人部落が、座付き作家の不在や吸引力のある役者や演出家を育てられなかったことにより衰退していったことを考えあわせると理解しやすい。
 同時に、当時の日本演劇界は伝統的な新劇スタイルからものすごい勢いで脱皮しようとしていた時だったが、盛岡の演劇界は、その動きにどちらかというと忌避していたと思われる。それで、若い世代の演劇離れと嘆いても説得力はない。
 しかし、県芸術祭演劇部門の開催方法をめぐって県内の劇団が一同に会し、休眠状態だった県演劇団体連絡協議会(現・岩手県演劇協会)を再発足させ、盛岡以外での開催もルール化したことの成果は大きい。他の部門が今なお盛岡開催が中心なのに対し、演劇部門は三〇年以上も県内五地区開催を継続している。この再結成に呼応するように岩手日報は「演劇の周辺」と題し、盛岡ばかりではなく県内全域の主な劇団の活動状況を大きなスペースで連載紹介した。
 若手の育成では、昭和五十二年から県民会館で高校生のための舞台技術講座が始まった。この講座は、盛岡劇場が誕生してからは盛岡劇場に引き継がれるが、多くの高校生たちがここで舞台技術を学び育った。ただ、演出術、演技の習得というところでは不満が残る。高校演劇発表会での審査では、現役を離れているベテラン演劇人が審査員に名を連ね、一時代前の演劇観を高校生たちに説く。この現象はこのあとしばらく続き、いまだに、岩手県の高校演劇は東北大会の壁を打ち破れず、全国大会に出場できない状態が続いている。

いわて演劇通史52

昭和五十三年一月四日付けの岩手日報に「県演劇界の展望」と題する特集記事が載った。戦後三十年の県演劇界の流れを概観しながら、その課題と展望を探った記事だ。 
 特集では、待望の岩手県民会館が誕生(昭和四十八年)した後、県演劇界は「中央劇団来演という時代的風潮を反映して、創造する舞台から見せる舞台へと変ぼうする傾向も見られ、演劇創造活動の再検討を求められている」とまず、リード記事でその課題を指摘。ついで、
というのに、昭和四十年代をリードしていた「劇団かい」も「ぐるーぷ・DE・あんべ」も既になく、老舗劇団「詩人部落」は昭和五十年十一月の越前竹人形(県民会館)以来、公演を行う力を失い、盛岡ミュージカルプロデュースも翌年十月の公演をもって解散していた。
 当時、私は盛岡での活動の場を求めて、詩人部落の方々にもお会いしたことがある。「今は、公演の予定なし」との話に参加をためらった。その後、詩人部落は「多賀神楽」の復興に力を注ぐが、現代演劇の現場からは姿を消す。
 新しい劇団では、前号に記述した「舞酔」のほか、「亜季」「九月とアウラー」が精力的な活動を展開していた。この年、舞酔は唐十郎の作品「少女仮面」(教育会館・十一月)、亜季はヘレンケラー物語の「奇蹟の人」(十二月・県民会館)を上演している。新しい流れの作品に挑戦する舞酔と前回の「放浪記」に次いで商業演劇や新劇の名舞台を再現しようとする亜季の活動が注目されていた。
 岩手日報の記事(十二月二十三日付け岩手日報夕刊)では「県民会館はじめ県内各地の文化施設の最近の充実ぶりは、舞台芸術に上演の場として大きな刺激なっている。演劇界では特に新旧の交代が目立ち、新興劇団の活躍が特筆される。・・・十数年低迷と試行を繰り返してきた演劇界にも新しい胎動の芽が少しずつ育っている」として、「舞酔」と「亜季」をその新しい芽とし、その若干先輩格になる「九月とアウラー」の活動の充実ぶりを伝えている。
  「演劇集団九月とアウラー」は「劇団かい」や「盛岡ミュージカルプロデュース」に参加していた当時二十代前半の若い演劇人が集まって結成された。旗上げ公演は県公会堂。昭和四十七年七月、作品は詩人・大岡信の唯一の戯曲「あだしの」(演出・浅沼久)。宮川康一(初代代表)や熊谷峰男、小川みち子らが出演している。翌年十一月は、別役実の作品「スパイものがたり」を教育会館で上演している。
 昭和五十二年のアウラーは、井上ひさし作の「それからのブンとフン」を教育会館で上演する。この公演の評を盛岡ミュージカルプロデュースで活躍した劇作家の赤石俊一(故人)が岩手日報紙上に寄せている。
 「旗上げ公演では、不均衡な起爆力で観客を包みこみ、したたかな個性を感じさせた。その後、高度な均衡ある舞台づくりを目指して、児童劇の世界にのめりこみ、今回、久々の大人のための舞台を楽しませてくれた。・・・アウラーは県内劇団にあってミュージカルをそれなりに表現できる存在で・・豊かな演劇づくりをめざし・・数々の場面でそうしたエネルギーのほとばしりを見せた。・・・地方都市における演劇の総合的課題をスマートに舞台化し続けてもらいたい。児童劇を通して培った均衡と、本来の不均衡な魅力を観客に向かっていかに調合してみせてくれるか楽しみである」(十二月十日夕刊)
 アウラーは当時の新しいリーダーであった。アウラーの結成から初期の活動にかけて、もっと掘り下げてみる必要がありそうだ。

いわて演劇通史51

昭和五十二年の岩手の演劇は「低迷と試行の演劇界に新旧交代が目立つ」と総括される。 
 待望の岩手県民会館が誕生(昭和四十八年)したというのに、昭和四十年代をリードしていた「劇団かい」も「ぐるーぷ・DE・あんべ」も既になく、老舗劇団「詩人部落」は昭和五十年十一月の越前竹人形(県民会館)以来、公演を行う力を失い、盛岡ミュージカルプロデュースも翌年十月の公演をもって解散していた。
 当時、私は盛岡での活動の場を求めて、詩人部落の方々にもお会いしたことがある。「今は、公演の予定なし」との話に参加をためらった。その後、詩人部落は「多賀神楽」の復興に力を注ぐが、現代演劇の現場からは姿を消す。
 新しい劇団では、前号に記述した「舞酔」のほか、「亜季」「九月とアウラー」が精力的な活動を展開していた。この年、舞酔は唐十郎の作品「少女仮面」(教育会館・十一月)、亜季はヘレンケラー物語の「奇蹟の人」(十二月・県民会館)を上演している。新しい流れの作品に挑戦する舞酔と前回の「放浪記」に次いで商業演劇や新劇の名舞台を再現しようとする亜季の活動が注目されていた。
 岩手日報の記事(十二月二十三日付け岩手日報夕刊)では「県民会館はじめ県内各地の文化施設の最近の充実ぶりは、舞台芸術に上演の場として大きな刺激なっている。演劇界では特に新旧の交代が目立ち、新興劇団の活躍が特筆される。・・・十数年低迷と試行を繰り返してきた演劇界にも新しい胎動の芽が少しずつ育っている」として、「舞酔」と「亜季」をその新しい芽とし、その若干先輩格になる「九月とアウラー」の活動の充実ぶりを伝えている。
  「演劇集団九月とアウラー」は「劇団かい」や「盛岡ミュージカルプロデュース」に参加していた当時二十代前半の若い演劇人が集まって結成された。旗上げ公演は県公会堂。昭和四十七年七月、作品は詩人・大岡信の唯一の戯曲「あだしの」(演出・浅沼久)。宮川康一(初代代表)や熊谷峰男、小川みち子らが出演している。翌年十一月は、別役実の作品「スパイものがたり」を教育会館で上演している。
 昭和五十二年のアウラーは、井上ひさし作の「それからのブンとフン」を教育会館で上演する。この公演の評を盛岡ミュージカルプロデュースで活躍した劇作家の赤石俊一(故人)が岩手日報紙上に寄せている。
 「旗上げ公演では、不均衡な起爆力で観客を包みこみ、したたかな個性を感じさせた。その後、高度な均衡ある舞台づくりを目指して、児童劇の世界にのめりこみ、今回、久々の大人のための舞台を楽しませてくれた。・・・アウラーは県内劇団にあってミュージカルをそれなりに表現できる存在で・・豊かな演劇づくりをめざし・・数々の場面でそうしたエネルギーのほとばしりを見せた。・・・地方都市における演劇の総合的課題をスマートに舞台化し続けてもらいたい。児童劇を通して培った均衡と、本来の不均衡な魅力を観客に向かっていかに調合してみせてくれるか楽しみである」(十二月十日夕刊)
 アウラーは当時の新しいリーダーであった。アウラーの結成から初期の活動にかけて、もっと掘り下げてみる必要がありそうだ。

いわて演劇通史50

近は、文士劇やおでってリージョナル劇場などの作家と演出の多い藤原正教(現・九月とアウラー所属)だが、昭和五十年代前半の藤原はスター俳優でもあった。一度だけ共演したことがある、と言っても「ラジオドラマ」だが、競馬組合提供の「馬っこ人生」、IBCの連続ラジオドラマだった。IBCの名ディレクターだった北口惇夫が演出で、何度となく私はダメ出しされたが、藤原はほとんど1回でOKだった。藤原の「飾らないセリフ術」は、小野寺瑞穂、三谷信吾、畑中美耶子ら個性豊かな共演のベテラン陣の中でも実に安定していた。
前号で紹介した演劇研究会「舞酔」の旗上げ公演「おしの」(作・界常信、演出・石沢信司。盛岡芸術祭公園。昭和五十一年五月、県民会館大ホール)には藤原のほか現在、帯の会に所属している主演の二階堂芳子(当時・吉田芳子)、戦前に初舞台を踏んでいるベテラン真木小苗ら、放送劇出身者がいた。藤原も放送劇団の子役出身だった。
芝居は大きいホールでやるものではない、と思っていた私は下手側客席の前列三、四列目で見た。上演時間四時間、長い舞台転換時間は少々辛かったが、二階堂さんの澄んだ声質と藤原氏の優しい役作りに引き込まれた。芝居の完成度という点では戯曲・演出面での疑問は残ったが、盛岡の演劇の新たな可能性(出発)を感じた。
当時、盛岡の演劇界で注目されていた吉田政子さん(当時・畠山政子)は昭和五十一年十月の「遠野物語どんどはれぇ」公演を最後に解散した」盛岡ミュージカルプロデュース」などに出演していた。伸びやかな声と周りに動じることのない存在感ある演技は、ちょっと古めの「新劇」調の盛岡の演技陣と一線を画していた。
この藤原正教・吉田政子の存在が、盛岡では「よい観客になろう」としていた私の決心を翻させた。
私が吉田政子と舞台をともにしたのは演劇研究会舞酔の第二回公演「少女仮面」(昭和五十二年十一月、岩手芸術祭公演)だった。すでに藤原や二階堂、真木らは退会していたが、新たに沢藤久司、小野寺斉子(当時・清枝斉子)らが参加していた。
「少女仮面」(作・唐十郎)の演目は私が提案したものだ。「ジャンルを超えて演劇の可能性を探ろう」という集団の考え方があったから実現できた。盛岡でははじめてのアンダーグランド・小劇場系の作品だった。
主演の春日野八千代役は当然、吉田政子。彼女の力はジャンルを超えて発揮される。小野寺斉子は最年少だったが老婆役で確かな台詞術の片鱗を見せた。
岩手日報の紙上では、(T)のイニシャル劇評で、難解な戯曲への挑戦と主演の力量、見せる舞台への工夫などが評価されたが「テーマが理解されたとはいい難い。・・部分的な面白さがどれだけ全体の中で消化されているか疑問が残る」と手厳しい。公演会場の選定、演技術、演出手法も含め、集団の創造力が「思い」に比べはかるに未熟であったのは確かである。

いわて演劇通史49

昭和五十一年は、私が帰盛した年だ。東京で大学の演劇研究会の仲間たちと「無頼派」(後の東京プレイマップシアター)という劇団を立ち上げたばかりで、就職のためではあったが故郷へ帰ることに少なからず後ろめたさがあった。「地方の演劇なんて」と地域の文化レベルを蔑む気持ちがどこかであったかもしれない。盛岡に帰ったら「いい観客にならなければ」と芝居づくりの現場に別れを告げるつもりでいた。 
この年は、遠野物語ファンタジーが始まった年で、盛岡では盛岡ミュージカルプロデュースが解散した。新しい劇団では放送劇団にいた俳優たちを中心に「演劇研究会舞酔(まよい)」が誕生している。
ミュージカルプロデュースの解散に際し、作家・演出家としてその中核にいた赤石俊一氏(故人)は、「ミュージカルと地方演劇」と題して、地方演劇に対する在り方について、岩手日報に次のようなコメントを寄せている。
「観客になりきれない批評眼が、これまで多くの発芽をつみとってきたであろうし、これからもありうるのだとすれば・・。つぶれてしまう芽と、育てるべき芽。地方芸術の他の分野では、比較的おおらかに、それだからこそ厳しくなされている姿勢です。決して“甘く”なのではなく、舞台それ自体を地方文化に溶けこませることのできる鋭い目がなんと不足していることでしょう。
演出はもとより、作家、俳優の不在傾向の強い昨今の地方演劇であるからこそ、育つべき芽の動きは大切にしたいものです」
観客になりきれぬ批評眼とは、同じ演劇人の批評眼を指していることは想像できる。しかし、帰省したばかりの筆者にとって、当時の盛岡・岩手の演劇に運動論の対立が顕在化しているようには見えなかった。むしろ、随分と低迷しているのではないか、という印象だった。摘み取られた芽が多すぎていたのかもしれないし、つぶれるべきしてつぶれた芽も多かったかもしれない。しかし、地方文化の中に生きる演劇という視点での批評眼は今日でも少ない。演劇界においても、外においてもだ。
さて、昭和五十一年の年末の岩手日報「76岩手の芸術文化・舞台」には遠野物語ファンタジーと盛岡ミュージカルプロデュース以外に、一戸の「いろり」、盛岡の「舞酔」「九月とアウラー」、釜石の「げろっぺん」、宮古の「麦の会」、北上の「きたかぜ」、一関の「MOKU」などの劇団の公演記録が掲載されている。
旗上げ劇団は「舞酔」のみであるが、私は旗上げ公演「おしの」の舞台を見ている。五月九日、県民会館大ホール。大ホールなんかで芝居?小劇場演劇の洗礼を受けていたので、最初観劇を躊躇していたが、主演が高校の先輩「藤原正教」氏であることを記事で知り、つい足を運んでしまった。「いい観客になる」キッカケづくりの観劇の予定だったが、二人の俳優の演技が、その決意を鈍らせた。藤原正教と吉田政子である。

いわて演劇通史48

昭和五十一年は、遠野物語ファンタジーが始まった年だ。今日、全国各地で町おこしや会館の活性化のために行われる「市民手づくりの舞台」の始まりである。岩手県で国民文化祭が開催された平成五年、筆者が全国の市民の舞台を調べたところ、三十四か所で同様の取り組みが行われていたが、遠野の歴史が一番古く、岩手県内での実施は盛岡劇場の創作舞台を含めると七か所にのぼり、全国一だった。
第一回遠野物語ファンタジー「笛と童子」は三月十四日、遠野市民センターで行われた。三月十七日の岩手日報夕刊は次のように報じている。
「関係者が予想した以上の盛り上がりをみせ、大成功のうちに幕をおろした。この上演は、他から呼んでくるとか、一部のグループがつくりあげたものを見るといっただけではなく、住民自身が準備段階から上演まで何らかの形で参加し創造する舞台であること、市民センターが本来の意味で市民のものであることを確認するねらいも含まれている」
 第一弾としては超満員の熱気もあり、成功というのが大方の共通認識だったが、問題点も明らかになっていく。市民参加というお題目で、演劇的評価を持ち込むことが躊躇され、どうしても当時の岩手県の演劇水準からみて満足できる出来ではなかったようだ。行政サイドの強すぎるイニシアチブ、演出者の勉強不足などの問題も指摘された。
 これに対し、プロデュースシステムによるミュージカルの作・演出を手がけていた赤石俊一氏(故人)は、「(舞台上の)成功・不成功は別枠として、困難な試みに挑戦した努力は評価されるべき」と支持。さらに「遠野物語は、遠野の人のものだから、とにかく自分たちの手でという姿勢は崩してほしくない」とプロ的批評からは一線を画し、演出的な課題については「これからの積み重ねの中で真剣に研究し、解消されるものであり」その上で、「真に市民の手でというキャッチフレーズが定着してきたとき、遠野は『新しい遠野物語』を生みだすことができるのではなかろうか」と期待のエールを送る。
 しかし、こうした期待は、現在、どの地域の市民舞台でも解決が難しい課題のままだ。「市民参加」の呪縛で高いものを目指す意欲の足かせとなり、リーダーとなるべき人材難でコアメンバーの固定化による劇団化を招く例も少なくない。行政や地域が市民の舞台に過度の力入れをすることにより、地道な活動を行う地域劇団の存在が危うくなっている地域もある。
 市民舞台のブームは、ひと頃の会館建設ラッシュが落ち着くとともに、自治体の財政難により、近年は下火になっている。
 だからこそ、今、市民舞台の意義をもう一度、問うてみる必要がありそうだ。地域の有形無形の財産を掘り起こし、それをなぞって舞台化するだけではなく、市民の手で新たな価値を見出し磨き上げ発信していく。そこに結集する才能は、評価されることを恐れず、演劇的にも文化的にも多様であるべきだろう。

いわて演劇通史47

前号に引き続き、昭和五十年前後の演劇状況について記したい。
昭和四十八年四月一日の岩手県民会館が落成で活性化したのは舞台芸術分野だけではない。美術展会場も充実し、大型の美術展開催も可能になったほか、岩手日報学芸欄の刷新も県民会館落成と無関係ではないように思える。これまでも岩手芸術祭特集の記事はあったが、年末に「73岩手の芸術文化」と称するその年の芸術文化活動をジャンルごとに総括する特集が組まれる。この企画は、現在まで続いていて、今や県の現代文化史を語るに欠かすことができない。 
昭和四十八年十二月十一日付けは演劇特集だった。大見出しは「中央の劇団どっと」サブで「赤字乗り越えてアマ活動」、小見出しは「県民会館の開館刺激に」「岩田ら県出身俳優好演」「地域の問題つく好演も」と三つあげられ、写真は来盛劇団の公演と、地元のミュージカルプロデュース公演の二枚の写真が組まれた。
紙上でのこの年のトピックスは、やはり県民会館の開館である。来盛劇団の公演が公会堂や教育会館から県民会館に移行し、地元劇団の公演も増えた。しかし増えたと言っても、この年の盛岡での地元公演は六本。現在が三十本~四十本だから随分と少ない。また、この年、初めて黒テントが盛岡で公演(八幡宮)したが、記事に記載はなかった。伝説の観客数わずか七十名余り、それなのに俳優の斉藤晴彦さんが「次回は、2回公演で盛岡に参ります」と言った逸話は関係者の記憶の中にしか残されていない。
昭和四十九年、岩手日報「74岩手の芸術文化」は演劇と音楽が一括りとなるが、公演記録が詳細に掲載される。県民会館の開館でさぞや公演も続々と増えたかのように想像したが、結果は全くの逆で、盛岡の公演は僅か三本。前年の半減である。小見出しには「劇団あんべが解散」とあり、記事には「団員不足と観客不足」が各劇団共通の課題としてあげられている。どんなに立派なホールが出来ても、人材(集団)の育成と表現の可能性への挑戦がなければ、文化は育たない。
昭和五十年、「75岩手の芸術文化」は演劇と舞踊とで括られる。前年の「演劇と音楽」の括りより自然だ。見出しは「意欲作で舞台も充実」とあり、サブで「子供向け公演に大きな成果」と記される。県民会館での来盛公演が増加し、この年の九月、二年あまりの討議の末、盛岡勤労者演劇協議会(労演)が盛岡演劇鑑賞会に改称し新たなスタートを切った。労働運動や一部新劇との協働関係が、黒テントをはじめとする新しい演劇運動からも批判され、労演の全国的な改称・改組が進んでいた。
子供向けでは「九月とアウラー」が県内巡業公演を精力的にこなし、北上の「劇団きたかぜ」も同様だった。
また、この年の三月、各専門別団体と市町村単位の文化団体が一緒になった全県的な芸術文化組織となる社団法人岩手県芸術文化協会が誕生し、県民会館では移動県民会館事業を開始する。盛岡中心の芸術文化活動から全県的な視野で文化活動を広めようという動きの始まりである。

いわて演劇通史46

前号、前々号では盛岡の小劇場演劇の始まりを劇団赤い風の旗上げ公演(昭和五十四年四月)を例に記述させていただいたが、今回は、そこから少し遡って、昭和五十年前後の演劇状況について記しておきたい。
昭和四十八年四月一日に岩手県民会館が落成し、盛岡の演劇は立派な近代劇場での公演形態へと移行する。特にも中ホールは、旧盛岡劇場の伝統を引き継ぎ廻り舞台も設置し、各劇団の人気となった。「盛岡ミュージカルプロデュース」、「演劇集団九月とアウラー」、「劇団詩人部落」の三団体が次々に県民会館で公演を行い、老朽化した公会堂はほとんど使われなくなり、教育会館での公演も減少する。
さらに、県民会館の職員が中心となった「劇団亜季(あき)」(昭和五十年)、「演劇研究会舞酔(まよい)」(昭和五十一年)の二つの劇団が結成される。
高校演劇にも好影響が出てきている。地区大会が県民会館で行われるようになり、昭和五十二年、県民会館が主催して「高校生のための舞台技術講習会」が初めて実施される。(舞台技術講習会は平成三年から盛岡劇場に移行)
東京では近代劇場の管理体制や表現上の制限の多さに反発して、小劇場演劇が隆盛を極めていた頃、盛岡では近代劇場での公演が皆の憧れになっていた。長い間、老朽化した公会堂や谷村文化センター(旧盛岡劇場)で我慢を強いられていた演劇人にとっては当然の思いでもある。しかし、何故、「ホール」に固執したのか。新しい演劇空間づくりにチャレンジしなかったのか。それが当時の演劇状況の限界だったのかもしれない。盛岡での小劇場演劇の芽生えが、盛岡の演劇史の系譜から離れて結成された劇団赤い風の公演まで待たねばならなかった理由の一つである。
さて、昭和五十年だが、一月二十日、NHK盛岡放送局旧館に、演劇・音楽団体専用の稽古場が公民館分室として開設される。県民会館のオープンにより公演会場は充実してきたが、そのための稽古場は不足していた。
当時としては画期的な「使用料無料」「利用団体による自主管理」だった。鍵は近所の民家が預かり,暖は石油ストーブでとる。元は放送スタジオだっただけに防音は完璧だった。この稽古場は、上田公民館の着工のため取り壊しになり、利用期間は短かったが、音楽・演劇団体の活動の大きな支えになった。
管理は愛宕町の盛岡市公民館(現中央公民館)、離れた距離にあるため目が届きにくい。当時の職員は火気の取り扱いにハラハラしたという。しかし、大きな事故やトラブルはなかったようだ。音楽団体も演劇団体も「大人」だったろうし、何よりも自主管理を容認した市側の度量も大きい。
 こうした公立ホールや稽古場の表現者団体による自主管理方は、現在、金沢や仙台、大阪など全国のいくつかの先進都市で実績をあげている。しかし、三十年前に先行していたはずの盛岡では、残念ながら継承されてはいない。

いわて演劇通史45

昭和54年4月の劇団赤い風の初公演は、予想以上に大きな反響を岩手の文化状況に与えた。座付き作家のおきあんごは、後に「赤い風以前、赤い風以後」という言葉で旗揚げ公演を総括する。岩手における小劇場演劇の本格的な始動という点においては全くその通りであるし、劇団赤い風の活動としても30年間一貫して小劇場演劇の基本ラインからぶれてはいない。
また、赤い風の特色として、これまでの盛岡演劇界の系譜から独立した立ち上げであったことが挙げられる。
立派なホールを使用できるだけの資金力とスタッフ力は当時の盛岡の演劇界にとって極めて大切なことだった。とりわけ県民会館が誕生した昭和48年から間もない頃であり、当時は、県民会館さもなくば教育会館が演劇公演の場を独占しており、市内の劇団がこの二つ以外の会場を使用した例は昭和47年10月の盛岡ミュージカルプロデュースの公会堂公演以来記録として残っていない。非劇場空間での演劇となると、昭和44年3月の「ぐるーる・de・あんべ」の喫茶店「花の木」での公演まで遡らなければならない。盛岡の演劇は10年間の長きにわたっていわゆる「劇場(ホール)」のみで上演され続けていたのである。舞台の技術スタッフ力の系譜(協力)が不可欠であるし、伝統的な職場演劇、高校演劇や地域劇団での人材の継承によって劇団が成立していた頃であった。
赤い風は「Uターン青年達の劇団」と新聞に紹介されるほど、東京の演劇状況の影響を受けた人間たちが劇団周辺に集い始めていたが、前述した人材の系譜からは離れていたのである。   
「貧困こそが武器」と当時の劇団の弱みを逆手にとって「技術の貧困、経験の貧困、経済の貧困が、新しい演劇と、新しい演劇の場を創る」と標榜した。
人材の系譜のしがらみや「芝居は劇場で行われるもの」という常識から離れることによって「自由」が獲得できたのかもしれない。
その後、赤い風のメンバーたちは「カワトクダイヤモンドホール」「C&A」「中三AUNホール」「盛岡劇場」「おでってホール」「いわてアートサポートセンター」などの開設や運営に密接に関わっていくほか、伊藤楽三ツ石神社での野外公演なども手掛ける。
勿論、優れた舞台設備が整うホールこそ様々な演出効果を表現できる点で、望ましい空間であることに疑いはないが、それを生かすも殺すも、その運営に携わる「人材」である。人気の高いホールが一気に評判を落としたり、その逆の例もある。
小劇場演劇の空間は、たえず表現者の目線で創り上げる空間である。そこに観客との交流も生まれる。不自由であるからこそ、そこに不自由を乗り越える新しい表現も生まれる。曲がり角のあるホールであった渋谷ジアンジアンの空間もそういう空間だった。そのジアンジアンを好んだ寺山修司没後25年記念で「盛岡寺山修司祭2008」がいわてアートサポートセンターで5月10日から24日まで毎週末行われる。不自由さのなかの自由、貧困から生まれる新しい挑戦が楽しみだ。

いわて演劇通史44

劇団赤い風の初公演は、結成翌年の昭和五十四年四月。三週続けて毎週土曜日に昼夜二回公演を行った。合計六ステージ。会場は盛岡市本町通りの「肉の川喜」の三階「北点画廊」。小規模なギャラリーで、一角に演技空間をつくり、観客は三十人も入れば満杯という狭い空間だった。
作品はおきあんごの「バアーン」。メンバーは盛岡に小劇場演劇の風を吹かせたいと意気込んでいた。しかし、届いた台本の枚数は、四百字詰めの原稿用紙で二十数枚。読み合わせをすると三十分もかからない。役者にとってはなんとも物足りない。参加者全員からのブーイングで、結局、作家が責任をとって一時間以上の芝居に仕上げるからという約束をし、演出も担当することになった。
この作品には実は虚実入り交じった逸話がある。もともと「おきなんご」の処女作は、演劇集団九月とアウラーの公演用に書かれたものである。しかし、実際は、公演はおろか練習の俎上にも上っていない。当時の代表者である宮川康一に「上演するとしたら、上演費を提供してもらわなければ」と言われ、台本の提供を断念したという。作家に上演料を払うのが普通だが、作家が上演料を払うというのは前代未聞だ。その作品が「バアーン」であったかどうか、上演料の請求は本当にあったのかどうか、両当事者に何度か話題にしたことがあるが、両者の意見はいつも微妙に食い違い、確信ある返事を聞いたことがない。
赤い風は役者中心の劇団で、初公演に際し、音響に盛岡市職員の萬英一、照明に岩手県民会館の佐藤英也が助っ人で参加した。
練習会場は、当時医大生の「第五列」(個人)が装置と役者で参加するということで、医大教養部の学生会館(?)の一室をお借りした。
初日の公演は、四月七日、マチネー(昼の部)である。役者は衣装メイク万端で、控え室で開演の指示を待っているが、受付兼演出のおきあんごからの指示はなかなか来ない。「まだですか?」「まだだ」「いつまで待つんですか?」、「客が来るまで」。開演時間に客は一人もいなかった。
十五分ほど待ったろうか。やっと客が来た。女子高校生三人。赤い風の舞台が開いた。役者が五人だから客の方が少ない。必死となって観客と向かい合った。狭い空間である。客の息づかいも聞こえる。女子高生がクスッと笑う。固く肩に力が入った演技がスーッと和らぎ、客との呼吸が合いはじめる。
夜の部が終わると、頂き物のお酒とお菓子で客席は観客と交流の場になった。詩人、画家、マスコミ関係者など、様々な観客と即席の合評会が始まる。「小劇場演劇はかくあるべき。作家至上主義、演出至上主義、役者至上主義を廃し、観客とともに」などと論じ、その日の観客の意見を直ぐ、翌週の演出に反映させ、本の手直しも行った。
この大胆な旗揚げ公演は各方面の大きな話題となる。それに一役買ったのが岩手日報の学芸欄である。三枚の舞台写真と詳細な劇評を交えた七段組の記事が載った。それ以後の公演は満員以上の盛況だった。
そこに、「祝公演」と記された「大根」と「醤油一升」が九月とアウラーのM氏から届けられた。「役者」に「大根」は禁句である。
九月とアウラーと赤い風のライバル心と友情の長い歴史の始まりである。

いわて演劇通史43

盛岡演劇協会の元会長、斎藤五郎氏が、平成十九年度の盛岡市勢功労者賞を受賞した。
受賞理由は、街もりおかの編集など広範な盛岡の魅力の掘り起こしを主とし、映画・演劇文化の振興への尽力も併せた功績で、盛岡の演劇関係者としては故盛内政志についで二人目の受賞になる。
勿論、演劇における最大の功績は、盛岡文士劇の復活初期の尽力だろう。旧文士劇には父親の斎藤勝州氏が大道具師として関わり、復活文士劇では、五郎氏が実行委員会事務局長、甥の渉氏が大道具、長男の作家、純氏が役者として参加した。斎藤家と文士劇の関係は深い。
さて、その斎藤氏の受賞を祝う会の準備会で、参加者の一人から、この演劇通史に時々は裏話も載せて欲しい、という声が出た。これまでの記事の多くは、筆者が新聞記事やパンフレット等の資料、関係者の談話などから記述したもので、「実はさあ・・」という裏話は極力避けてきた。
 しかし、連載の回が進み、近頃は今日的な話題から過去を遡ることも多くなってきたことと、私の所属する劇団赤い風が今年、結成三十年目を迎えることで、この辺で筆者自身の体験も、徐々にではあるが記述していきたいと思うようになってきた。あるいは、この一~二年の身近な演劇関係者の相次ぐ訃報のせいかもしれない。
 独り善がりにならぬように注意しながら「独り言」も交えていきたい。
劇団赤い風の結成は、一九七八年年九月で、旗揚げ公演が翌年の四月である。
初めての練習会場は八幡町の「伴天連茶屋」の二階。稽古らしき稽古にはならず、発声練習の後は、ただ語り合っていたような記憶がある。劇団の名前は桜山神社通りの「喫茶なじゃ」に集まって決めた。当初「青い風」が有力だったが、誰かが「青」は「オカマっぽい」、「赤」は劇的だ、ということで「赤い風」になった。「風」は「沈滞した盛岡の演劇界に新しい風をおこそう」という気持ちをこめたものだった。
当時、盛岡市内で定期的に活動している劇団はミュージカルを中心とした「九月とアウラー」、ストレートプレイの「亜季」と「舞酔」の三劇団。詩人部落は休眠状態だった。書き手(戯曲家)が不足しており、赤石俊一氏がアウラーやプロデュース公演に執筆する以外は、既成台本に頼っているのが実情だった。「完成度は度外視しても構わないからオリジナル台本で」というのが劇団づくりの基本的な考え方で、既に「台本の用意がある」という「あきあんご」が創立メンバーに加わった。
創立メンバーの中で、作・演出を担当するおきあんご以外は、全員、役者名に「色」をつけようという話になった。代表が黒沢総司、副代表の私は青田裕次郎、女優は緑が丘貝、白鳥比紗子。そして、事情により初回公演に参加できずに名前に「色」をつけ損なったのは、当時、若手で市内随一の存在力を見せていたヨシダマサコである。
劇団結成前、おきあんご以外の者は、一時、舞酔に在籍していたが、舞酔の代表との演劇思想の違いから脱退していた。
ちなみに、赤い風グループ脱退の前後の舞酔脱退者数名は、九月とアウラーに移って、リーダー格として活躍している。

いわて演劇通史42

いわてアートサポートセンター技術監督の大泉千春(劇団赤い風)が8月19日に、48歳の若さで急逝した。この数年、盛岡の演劇に影響を与えた演劇人の訃報が相次いでいる。遠野物語ファンタジーの作家「赤石俊一」、岩手出身の唯一の岸田戯曲賞作家「秋浜悟史」、商業演劇の演出家「宮永雄平」そして大泉千春。葬儀の弔辞や交流のあった幾人かの演劇人の話を聞きながら、岩手の舞台を裏から支えた人材について考えてみた。
 大泉千春の初舞台は赤い風のアトリエ公演「嗚呼鼠小僧次郎吉」で、寺山修司作の「ガリガリ博士の犯罪」での度肝を抜く演技でキャラを立たせた元々は役者系の人材であったが、多くの若い演劇人たちが影響を受けたのは、AUNホールやアートサポートセンターの舞台責任者としての指導であり、そこから演劇のあり方を学んだ。
立派な劇場ホールが林立し、演劇スタッフが分業化する中、大泉のように、演出家と対で話すことができ、役者もでき、スタッフへの指導力も持ち合わせている劇場スタッフは極めて少ないが、これまでの盛岡の演劇史をちょっと裏側からメスを入れると、舞台スタッフ系の人材が演劇振興に大きな役割を果たしてきたことがわかる。
まず、劇場スタッフの草分けというと、旧盛岡劇場(谷村文化センター)の大道具師の斎藤勝州だ。氏は旧盛岡劇場(当時・谷村文化センター)が事実上閉鎖される昭和43年に、岩手県民会館の誕生を夢見て亡くなった。その3男が、県民会館の施設課長や市民文化ホールの館長を歴任した、元盛岡演劇協会会長の斎藤五郎氏だ。劇場付きのスタッフは、たんに舞台技術に明るければいいということはない。斎藤親子は、劇場で行われる様々な催し物を通じ、舞台表現を通底する地域の文化のありようを学び、舞台表現と暮らし文化を結びつけるコーディネーターとなっていく。特に、斎藤五郎氏は盛岡文士劇や多賀神楽の復活に尽力する。
次に大きな役割を果たしていくのが盛岡舞台総合研究所の代表、工藤末三郎氏(元岩手県演劇団体連絡協議会会長)だ。照明・音響等の舞台会社を経営するとともに「盛岡ミュージカルプロデュース」を立ち上げた。作家・赤石俊一さんとのコンビで優れた舞台をつくった。
次の世代の代表は、舞台会社アクトディヴァイスを経営する浅沼久氏(岩手県演劇協会副会長、九月とアウラー演出家)だ。ご自身は勿論だが、会社のスタッフのサポートも力強い。東北演劇祭や国民文化祭などのイベントをはじめ、大きな演劇公演では氏ら舞台技術のプロスタッフの力に頼ることが多い。
昭和53年の劇団赤い風の誕生が、岩手における本格的な小劇場演劇のスタートであるとすると、初期の赤い風の技術的な貧困をサポートした佐藤英也氏(劇団亜季元代表、岩手県民会館勤務)の力は大きい。作家と役者に偏り、舞台に無頓着な小劇場演劇に手づくりの照明設備で、ギャラリーなど非劇場空間を劇場化した。佐藤氏には盛岡劇場の照明設備・音響設備システムも指導いただいた。
まだまだ列挙しなければならない人材は少なくない。舞台系の人材は、作家や演出家に比べ、どちらかというと陰に隠れがちではあるが、盛岡の演劇にとっては大きな存在だ。真剣に演劇を盛り上げることに情熱を傾ける舞台系人材の育成をおろそかに出来ない。

いわて演劇通史41

今年も7月に盛岡市民演劇賞の発表があった。平成十九年の今年で第5回目を迎えたが、この賞の前身は、平成七年度に創設された「もりげき演劇賞」だ。
「盛岡を演劇の街に!」という合い言葉ではじまった「演劇の広場づくり事業」のプログラムの一つだった。さかんな盛岡の演劇活動を「観客」と「有識者」の側から評価しようというもので、劇団公演だけでなく、プロデュース公演や個人の活動も賞の対象とした。「批評の場づくり」としての「感劇地図」の発行とも呼応した事業だった。
平成十年盛岡劇場の運営が市直営から文化振興事業団に替わり、数年して文化振興事業団の意向により「もりげき演劇賞」は廃止された。多くの演劇人と審査員は反対したが、事業団では「制度を見直すための」ということで押し切った。どこに問題があり、誰がどのように見直すのか、という説明はあいまいなままであった。
そして、演劇人等による強い要請を受け、もりげき演劇賞は、平成十四年、市民演劇賞といい名称で復活した。主催者の事業団は当初、全く新しい制度と説明したが、細部の変更はあったにせよ大筋においては「もりげき演劇賞」の継承であることは、間違いない。
さて、全国の演劇賞だが、老舗では紀伊国屋演劇賞、岸田戯曲賞があり、最近では読売演劇大賞、朝日舞台芸術賞が有名だ。何れも権威の高い賞で知られている。いずれも継続性と高い見識に裏付けられ、演劇界の支持も高い。(盛岡出身の秋浜悟史さんは紀伊国屋演劇賞と岸田戯曲賞の二つを受賞している)
演劇の評価は、公演の舞台での表現者と観客の交流が原点であり、高い次元での表現へのアプローチ、娯楽性の追求、新しい表現へのチャレンジ、個々の表現力、戯曲の文学性、制作能力の高さ、新しい才能の萌芽など多様な評価軸が存在する。
また、賞という評価に対しは否定的な考え方も存在する。「審査方法」や「審査員」に対する不信感である。賞でも批評でも、支持されるのは、評価軸の明確化と審査員の公平さの担保である。場合によっては「受賞なし」という勇気ある選択も必要であろうし、かつて岸田戯曲賞では審査を巡っての対立による審査員の辞任もあった。なによりも審査経緯の公開が大切であり、間違っても審査員と表現者の癒着、審査員の権威化(傲慢化)を許してはならない。
市民演劇賞はたかが地域の小さな賞だが、受賞者は素直に受賞を喜び、観客は受賞者の作品を楽しみに劇場に足を運ぶ。
この演劇賞が長く支持され、継続するために、たえず検証を加え、真摯に舞台に向かい合う必要がある。舞台では作家、演出、俳優、スタッフがもがきながら苦しみながら、表現の場にさらされている。それを評価するものも、議論の対立も含めてその評価の考え方をさらけ出す責任がある。

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いわて演劇通史40

盛岡の演劇人らによって秋浜悟史さんの追悼企画がすすんでいる。公演、追悼展示、座談会等々。しかし、大先輩、秋浜さんのことを私たちはあまり知らない。
先日、日本演出者協会から「戦後演劇=演出家の仕事②」という発刊されたばかりの書籍が送られてきた。一昨年に「六〇年代・アングラ・演劇革命=演出家の仕事」が発刊されているが、今度送られてきた本は、六十年代までを扱ったもので、前著と同じく日本演出家協会編である。
冒頭、編者を代表して、かつて秋浜さんと一緒に舞台を創ってきた「ふじたあさや」氏が次のように記している。
「アングラが観客を含めた、既存の演劇や社会への〈運動〉、切実で熱烈な〈異議申し立て〉(前著の前書き)であったなら、〈意義申し立て〉をされた側を問題にしなければなりません」
この前著と今度の本の両方に秋浜さんが登場する。
秋浜さんは、早稲田大学の自由舞台で演劇を行い、岩波映画からNHK俳優養成所出身者らが中心となった三十人会に参加した。一九六二年である。
今度の本では、早稲田の自由舞台、そして三十人会で一緒だった女優の伊藤牧子さんが、秋浜さんについて書いている。伊藤さんは秋浜さんの「おもてぎり」「鎮魂歌抹殺」の舞台で第六回紀伊国屋演劇賞個人賞を受賞している。
三十人会当時の秋浜さんのことを伊藤さんは次のように述べている。
「六三年には『結婚の申し込み』、チエホフが卒論のハマさん(秋浜さん)の自家薬籠中の物、薬籠が大爆発したようなアクロティックな舞台だった。『身体反応の火花の速射砲のような連打』『偶然性がもつ戦闘的反発力の組織化』などの刺激的フレーズに役者たちはワクワクと『想像力のバネで飛翔』させられた」
充分にアンダーグランドの言語である。演劇が大きく変わろうとしているその時代に秋浜さんは確かにいた。
東京時代の秋浜さんの多くの本には「南部弁」(伊藤さん)が使用されている。
「標準語は、それを逆手に使う場合以外は使いたくない。幼児語や地方語の方に興味がある」という秋浜さんは、「口うつしに、情熱的に、馬鹿丁寧に、あなたの国のリズムを、響きを、色を、重さを、私たち俳優の肉体に注ぎこみ、うえつけようとします」(伊藤牧子)
そして三十人会最後の舞台となった「袴垂れはどこだ」(福田善之作、秋浜悟史演出)では、「秋浜翻訳で、袴垂れ党のみんなは南部弁を操った」のである。
三十五年前、伊藤さんが帰省中の秋浜さんに充てた手紙の一節が載っていた。「・・どんなことがあってもふるさとの地だけは裏切れないのは偉大です。『死ぬならば、ふるさとへ行きて死なむと思う』と啄木に血を吐かせた渋民は、あなたにもそう強いるのですか・・」
私たちは、秋浜さんのことをもっと知らなくてはと思う。

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いわて演劇通史39

盛岡出身の演出家・宮永雄平さんが亡くなった。五十八歳の若さで逝った。平成十九年四月三日午後五時二十七分、自身の脚本・演出する舞台「桂春団冶」(新橋演舞場、藤山直美・沢田研二主演)の初日の幕が降りて間もなく息を引き取った。全身を癌が蝕み、壮烈な痛みと戦いながら薬で朦朧とするなかでも、病床で舞台を気遣っていたという。
宮永さんは盛岡一高から中央大学にすすんだ。高校時代から演劇をはじめた。盛岡一高の演劇仲間に盛岡市の池田副市長がいるが、葬儀では歴々の名士にさきがけて最初に弔電が披露された。一緒に演劇をしたこと、大学時代、高円寺で一緒に飲み明かしたことなどを懐かしむ暖かい弔電だった。また、高校時代には盛岡の「劇団かい」(阿部正樹ら)の公演も手伝っている。
大学を中途にしてプロの演劇の世界に入った宮永さんはやがて旧ソ連に文化庁の派遣で一年間留学、演出術を学び、帰国後は劇団円の演出家として活躍した後、フリーになる。
若い頃は、日劇ミュージックホールの演出も手がけた。黒テントの佐藤信ら、当時新進の演出家として名が知られている幾人かがミュージックホールの演出をしている。
プロになった宮永さん演出の舞台公演がはじめて来盛したのは昭和五十五年、三蛙房の「あひるの靴」(水上勉)の公演だった。一般公演のほか、盛岡一高も団体鑑賞を行った。当時、宮永さんは木村光一に演出助手として師事し、「あひるの靴」が「演出家として一本立ち」(水上勉)の公演だった。
その後、宮永さんは商業演劇の演出を数多く手がけるが、郷里のことはいつでも気にかけてくれていた。
盛岡劇場が誕生し「高校生のための舞台技術講座」をはじめる際には、総合指導を引き受けてくれた。照明・音響・装置などの各部門が演出と役者を介在させてどう成立していくかを懇切丁寧に指導された。また国民文化祭いわて演劇祭では盛岡劇場の参加公演で演出を担当した。これまでプロの演出家による指導を受けたことがなかった盛岡の演劇人に宮永さんは容赦がなかった。自己流の演出・演技をしていた私たち盛岡の演劇人にとって宮永さんの指導は刺激的だった。少々耳に痛いことも言われたが、当たっているから文句は言えない。
宮永さんは言う「自己満足の、仲間内だけの芝居をやっていては演劇の街にはならない。盛岡の演劇がさかんと言っても、質の高いものが生まれないかぎり本当にさかんとは言えない」
山崎努一人芝居「ダミアン神父」(演出、宮永雄平)の岩手県公演も懐かしい。岩手日報と盛岡劇場が提携し、盛岡劇場のほか一戸、東和などでも公演を行った。舞台の構造が全く違うホールでの公演を宮永さんはいとも簡単に対処した。しかし、妥協を許さない。その場での最善に向けて努力を怠らない。厳しい人だったが思いの深い人だった。

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いわて演劇通史38

平成十九年の岩手芸術祭は第六十回目の記念すべき年にあたる。昭和二十二年、戦後の復興もままならぬなか、全国でも栃木県と並び早期に開催された地方芸術祭という歴史をもち、以来、かかさず開催(平成五年は国民文化祭が岩手県で開催されたため休止)されてきた。
その芸術祭の県負担金が大きく削減される。当初、県負担分の三十%が減額されるという案が、県芸術文化協会に前ぶれもなく示され、加盟団体は反発した。
結果的に「各部門の助成額については前年どおり」だが、国民文化祭の成果継承事業として平成六年から続いてきた「開幕フェスティバルの県負担額はゼロ」とし、県や市町村等が出資している「県文化振興基金」が肩代わりするということで落ち着いた。芸術祭参加団体としては、形がどうであれ昨年並みの財源が確保されたので一安心だが、平成二十年以降も同額が保障されたわけではない。厳しい地方財政は、行財政改革プログラムの中で聖域なき見直しを余儀なくしている。将来に向けて文化団体自身も主体的に芸術祭のあり方を検討すべき時期なのかもしれない。
では、そもそも芸術祭はどうして生まれ、誰が財源を確保し、どう運営されてきたのだろうか。
国の芸術祭が始まったのが昭和二十一年。文部省は各都道府県に対しても地方芸術祭の開催を呼びかけた。それを受ける形で、岩手県が主導したのが県芸術祭の出発である。第一回目は運営資金が県費から支出され「極めて官制的なにおいのつよい形式」(盛内政志)だったという。
昭和四十九年の第二十八回目からは各部門代表者による実行委員会方式の運営が固まった。岩手県芸術文化協会の発足や岩手県演劇団体連絡協議会(現岩手県演劇協会)の組織づくりが始まったのもこの頃である。
この当時から、盛岡開催を中心とする芸術祭に県内各都市での開催を求める声も高まってきた。
演劇部門では昭和四十年代に入って県内の演劇団体の交流がすすみ、昭和四十四年の第二十三回芸術祭ではじめて盛岡以外での公演も芸術祭に組み込み、第二十八回から県内五地区での開催を定着させた。
この間、様々に形での演劇部門公演が検討されている。
ひとつは、演劇発表会形式で、高校演劇発表会のように同一会場で県内の各劇団が時間を決めて公演を行おうというもの。これは、多様化する演劇に対応できないという理由で見送られている。
もうひとつは二~三日の会期の演劇祭で、同一都市複数会場で四~五劇団の公演を行うもの。これは現実的に盛岡以外で複数会場を探すのがつらい、開催都市の集客リスクが大きいという理由で実現されなかった。
県内五会場方式となってから三十年以上経過した。そろそろ新たな展開を検討することも必要だろう。

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いわて演劇通史37

文化状況の「現在」を享受している私たちは「現在」の原型を築き上げるために汗した先達をとかく忘れがちになる。忘れる以前に正しく伝承されず、現役であることの強みを振りかざし、一刀両断に「古い」とか「過去の話」と切り捨てることすらある。
表現の現場は常に新しさへの挑戦であり、固定概念の打破であることは否定しない。私自身もそうでありたいと思う。しかし、だからと言って先達の表現や活動実績にかかる検証と伝承の努力を怠っていい、と言うことはできない。
この連載は、盛岡を中心とした演劇の活動史の掘り起こしを一つの役割にしている。記述にあたって参考にしているのは岩手日報の過去の記事や先輩諸氏からの聞き取りであるが、どうしても書き手の「現在」の視点(若い演劇人にとって、書き手自身も古い概念に属するかもしれない)による価値判断がベースになる。その過程でとんでもない誤解や検証漏れの危うさも潜んでいる。
故盛内正志氏(元盛岡中央映画劇場社長、前岩手県芸術文化協会長)のことについては、この連載でも幾度か取り上げ、氏が尽力した芸術祭や盛岡文士劇の始まりについて記述し、一段階したというつもりになっていた。先頃、遺族から、盛岡市に氏の映画演劇資料や書簡類が寄贈され、大通りリリオで行われた「シネ街ック」で一部公開された。これまで氏の活動は演劇界、芸術文化分野でのリーダーとしての記録が中心であり、演劇の現場、演出家・盛内氏の活動はあまり紹介されたことがなかったが、今回公開された資料の中に「演出ノオト」があった。
 アプトン・シンクレア作「世界の末日」にかかる盛内氏自身か記載した二冊の演出ノートである。一冊四十ページほどのB6版ほどの学生ノートが隙間なく記載されている。一冊は、演出にあたっての基本的な考え方が記され、もう一冊は、舞台上の役者・置き道具の動きがシーンごとに、台詞のきっかけも含めて記載されている。
慌てて、盛岡劇場物語(平成八年発行)の年譜をあたってみると、「世界の末日」は昭和二十五年十一月十二日、劇団盛岡演劇会の岩手芸術祭参加公演として岩手県公会堂で行われていた。
アプトン・シンクレアはアメリカの社会派作家(一九七八年―一九六八年)として知られ、「世界の末日」は第三次世界大戦をテーマに書かれた戯曲だ。日本では昭和二十五年に中央公論社から出版されている。
盛岡演劇会は戦中の県の翼賛文化報国会演劇部が戦後改称されたもので、改称後の第一回公演が昭和二十一年十一月に行われ、盛岡の戦後演劇の黎明をリードしていた。盛内氏は盛岡演劇会のリーダーでもあった。
次号では盛内氏が何故、この作品を取り上げ、どう演出しようとしたのか、自身が記した「演出ノオト」から紹介してみたい。

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2008年1月6日日曜日

訃報が二つ 2005.8.30(NO31)

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昭和40年代後半 2005.10.28(NO32)

 故秋浜悟史氏が岸田戯曲賞を受賞した昭和四十四年、盛岡では老舗の劇団詩人部落が県教育表彰を受けている。記録では「ぐるーぷ・de・あんべ」(昭和43年旗上げ)が市内の喫茶店で公演しているほか、盛岡ミュージカルプロデュースが誕生し第一回公演(公会堂)が行われた。ほかには盛岡小劇場、詩人部落が公演を行っている。この時期、盛岡で活動している他の劇団は「劇団かい」のみだった。
 「ぐるーぷ・de・あんべ」の喫茶店での公演は画期的なものだった。3月から8月まで5本の作品を連続上演した。その全ての作品の演出が違う。座の中心人物だった、伊藤達夫、阿部史雄のほか詩人の内川吉男や既に地元戯曲家として多彩な活動をしている赤石俊一らがこの企画に参加している。
 当時の岩手日報でこの公演を次のように伝えている。。
『この実験公演は毎月一日だけ喫茶店を借り、ジャズ喫茶と同じように演劇喫茶の形式をとりながら発表活動を行っていく方針だが、いずれは演劇ばかりではなく、洋・邦楽、モダンダンスなど、さまざまなものを取り入れ、これまでにはみられなかったまったく新しい舞台を作り上げていくという。代表者の伊藤さんは「たとえせまくとも限られた条件のステージでも、月一回で発表の場をもてるということは、地方のアマ劇団としては願ってもないことですので、詩劇を中心にしながらいろいろな可能性をためしていきたいと思います・・」と語っていた。今回の実験公演は、県内演劇関係者の注目を集めている』
 かなり意欲的だ。同時に劇団活動というよりは劇場運動の初期形式と言ってよいだろう。当時の状況は、劇場プロデュース公演という例は極めて稀で、演劇の活動の基盤はあくまでも劇団でなければという考えが支配的だった。企画した伊藤氏らの考えが先鋭的に「演劇の場」の問題に踏み込んでいたとしても、周囲の演劇環境なり、県内の文化環境は「あくまでも実験公演」という線引きで彼らの活動を向こう岸に押さえ込んでいたのではないだろうか。上演作品にこれまでにない傾向と斬新な舞台づくりで定評のあった先発劇団の劇団かいは、昭和40年結成(阿部正樹ら)で、昭和47年の公演「冬眠まんざい」(秋浜悟史作)まで活動が続くが、この二つの劇団の活動がこの時代の演劇を牽引した。
 盛岡ミュージカルプロデュースも含め、昭和40年代半ばの盛岡の演劇状況は、盛岡演劇会・詩人部落の世代から、新しい世代への移行を予感させるものだった。
 しかし、こうした流れは県民会館が開館する昭和48年から50年代前半にかけて途絶える。劇団かいに続き、「「ぐるーぷ・de・あんべ」が昭和48年、盛岡小劇場が昭和50年、盛岡ミュージカルプロデュースが昭和51年、詩人部落が昭和53年以降公演活動の記録が見当たらなくなる。戦後演劇を担った世代も、その次の世代も、盛岡の演劇状況の主役から一斉に退場した。

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馬場勝彦さんのこと 2005.2.22(NO29)

 前号では、昨年8月に亡くなった劇作家赤石俊一氏について記された(藤原正教執筆)。
 もう一人、盛岡の演劇界にとって忘れることのできない方が12月に亡くなられた。馬場勝彦氏である。馬場さんは福祉の人として知られるが、演劇活動にも理解が深い。自身が創設され、その後の活動の原点ともなった「世代にかける橋」の活動分野に演劇活動的な部分もあり、演劇人との付き合いは若い頃からあったようだ。あるいは、市立図書館時代の小森一民氏らの影響かもしれない。
 馬場さんが、演劇人とはじめて本格的に協働したのが、アメリカ・デフシアターの盛岡公演だった。デフシアターはニューヨークを拠点とするろう者の劇団で、1981年の国際障害者年の記念公演で来日し、盛岡公演の予定があったが県教委で事業採択されず、市民が実行委員会を結成し、公演を実現させ、大きな話題となった。演劇人も福祉活動の人も一緒に汗をかいた。馬場さんは実行委員長として日々増え続ける実行委員のまとめ役となった。公演は成功し、剰余金の一部で、移動照明器具を購入した。小さな非劇場空間で演劇活動をせざるをえなかった当時の盛岡の演劇活動に大きな助力ととなった。
 盛岡の街を文化的な街にしたいと願う馬場さんは、次に旧盛岡劇場の保存復活運動に力を入れた。保存が建物の構造上難しいとわかると、新盛岡劇場の建設運動を推進した。キャパ700人のホールと100~300人程度の実験ホールを持つ劇場づくりを演劇・ロック・ジャズ等の愛好者とともに提言した。実験ホールは理解を得るのに難渋した。残念ながら演劇人の中にも異論があった。実験ホールの基本構想こそが、平成の盛岡の小劇場演劇に大きな役割を果たしてきた盛劇タウンホールのフットプランである。演劇=新劇、音楽=クラッシック、美術=洋画という括りだけはない「アナザーカルチャー」(その他文化)といわれるものを育てることで、人が育ち、街が元気になる、という持論からも実験ホールの実現には力を入れた。
 盛岡の演劇人が初めて海外公演をおこなった平成7年の盛岡・マニラ交流親善演劇公演のきっかけも馬場さんのマニラ育英会事業だった。育英会事業に関わった盛合直人氏ら演劇人の呼びかけで、公演は実現した。「私、佐藤太郎と申します」(作・おきあんご、演出・藤原正教)は、一千人を越す観客で大入りだった。馬場さんはこのころ既に体調を崩され、同行はかなわなかった。
 ほかに、中三アウンホールの活用、プラザおでっての建設、啄木・賢治青春館の開設に力を尽くされた。また、中津川沿いを多くの美術館やホールがある文化観光ゾーンにしたいという願いは長年の夢であり、その活動の源流を市民基点とすることは、ゆるぎない信念だった

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60年代の盛岡の演劇2 2004.10.12(NO27)

 「もりげき八時の芝居小屋」年代演劇シリーズが終わった。別役実の「或る話」(5月)、唐十郎の「腰巻お仙」(8月)、マリオ・フラッティの「金曜のベンチ」(9月)の三作品はそれぞれ特色のある舞台だった。あらためて、当時の変革への新しい息吹と豊かな演劇性に感心した。方法論や技術論、演劇の場に偏らない自由な発想は、今こそ、学ぶ必要があるかもしれない。
 このコーナーの趣旨からは少々脱線するが、60年代以降、随分、多くの演劇が生まれ、伝統演劇と現代演劇、東京の演劇と地域演劇の距離も縮まってきている。
 60年代にかけての劇場難は遠い過去だ。盛岡でも例外ではない。しかし、今、盛岡の演劇状況はどうだろうか。93年の国民文化祭から96年日本劇作家大会そしてマリオスの市民文化ホール落成(98年)まで、盛岡の演劇は一つの時代を築いていた。全国に「演劇の広場づくり」と「演劇の街盛岡」の名が広まり、行政等の視察が相次いだ。
 「演劇」が盛岡のブランドの一つとして観光パンフに掲載された。
 演劇の街に翳りが見え始めたのは99年頃からだろうか。不況という一因も否めないが、演劇人同士の協働やホールとの協働の場が狭まり、一般市民が演劇活動に参加し得る機会が少なくなってきた。ここは、ことの是非と原因を論じる場ではないので省くが、これまで歩んできた道が厚い雲に覆われ視界がひらけない。
 変革の時代を迎える前の演劇状況も同様ではなかったかと想像してしまう。「貧困の演劇」が新たな地平を切りひらくともいわれる。経済の貧困、技術の貧困、経験の貧困、そして環境の貧困。これらの貧困がバネとなって自由で新たな演劇とその「場が生まれたに違いない。
 さて、話を60年代盛岡の演劇状況に戻そう。
 岩手育会館が65年7月落成、講演会仕様のホールだが、舞台公演も工夫次第では可能で、会場難の盛岡の舞台芸術にとっては朗報だった。
 しかし、68年10月25日、芸術座公演を最後に谷村文化センター(旧盛岡劇場)はホールの幕を下ろす。翌月には専属大道具師だった斎藤勝州(斎藤五郎前盛岡演劇協会長の父)が亡くなる。
 劇団活動は、「劇団かい」(65年)、「盛岡小劇場」(66年)「ぐるーぷ・de・あんべ」(68年)が次々と旗揚げ、69年にはプロデュース公演で高い質の演劇活動を目指す盛岡ミュージカルプロデュースが誕生した。
 劇団かいの創設メンバーであった阿部正樹氏(IBC岩手放送)は、当時のことを次のように語っている。
 「旧態然とした盛岡の演劇に新しい風を送りたかった。イヨネスコや安部公房など当時の新しい演劇を積極的に取り上げたのはそうした理由からだ」(盛岡劇場物語より)

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60年代の盛岡の演劇1 2004.5.31(NO25)

 もりげき八時の芝居小屋」の企画、年代演劇シリーズがはじまった。
 第一弾が別役実の「或る話」、月の第二弾が唐十郎の「腰巻お仙」で、第三弾が9月(作品未定)に行われる。60年代の日本の現代演劇は、前半、新劇運動にかげりが見え始め、半ば過ぎからは変革への新しい息吹がものすごい勢いで噴出し始める。
 その時期、盛岡の演劇事情はどうだったろうか。
 まず、60年代前半(昭和35年~40年頃)頃を見てみよう。
 「盛岡劇場物語」(平成年刊)の年譜によると60年代の前半は、岩手芸術祭公演と文士劇公演以外の演劇公演記録はあまり見られない。
 しかし、県内の1960年、61年は岩手日報の紙上は、青年演劇の話題で賑わった。紙上では、ぶどう座主宰の川村光夫(劇作家)や詩人部落代表(当時)の小林和夫(劇作家)、教員、青年会の当事者等がかなりのスペースを割いて青年演劇のあり方を論じている。それだけ、青年演劇が高揚していた時期であったろう。
 1952年に全国大会で最優秀賞を受賞した湯田村青年会(岩手ぶどう座の前身)活躍を大きな契機として、六一年には県青年大会参加グループ数のピークを迎えている。
 61年の全国大会では江釣子青年会が全国大会で最優秀賞を受賞している。
 なお、川村光夫が率いる「ぶどう座」は61年に専用のけいこ場を落成させている。村内外から700人が募金に協力し、およそ80万円の浄財が集まったという。
 一方、盛岡では、戦後演劇の一端を支えていた職場演劇はすっかり影を潜め、一般の劇団の活動も停滞していた。
 劇団詩人部落は、芸術祭以外の活動はあまり活発でなく、老舗の盛岡演劇会の活動も低迷していた。新しい集団では62年に盛岡小劇場が誕生している。
 また、歳末恒例の盛岡文士劇も62年を最後に公演が中断される。小林和夫は危機感から盛岡を中心とした劇団に声をかけて代表者懇談会を開催しているが、その成果は芳しいものではなかったようだ。
 農村部の演劇活動の下支えが青年演劇なら、都市部の演劇は職場演劇や放送劇との協働によって支えられていたのではなかったろうか。職場演劇が衰退し、60年代はテレビの時代に突入、ラジオ放送劇も茶の間の話題から遠のく。
 当時の盛岡の演劇事情はどうだったのだろうか。はたして中央の新劇運動の翳りとは無縁だったのだろうか。
 このような状況下、岩手大学演劇部に新しい動きが見え始まる。アンチ・テアトルを標榜、斬新な舞台づくりに挑戦して実験的手法が注目された。
 61年にはイヲネスコの不条理劇に挑戦している。

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映画ロケと盛岡の演劇 2004.2.27(NO23)

 二月十三日、小樽を訪ねた。
 小樽は雪あかりのイベントで賑わっていた。壬生義士伝のプロデューサーである松竹映画の宮島氏から「映画・天国の本屋のロケセットを小樽運河の倉庫で公開しているから、是非見て欲しい」と勧められていた。
 小樽フィルムコミッションの実務責任者である小樽市観光振興課長が出迎え、ロケセットのことやロケ支援の内容について説明してくれた。「天国の本屋」は、盛岡のある書店から火がついて日本中を感動させながらロングベストセラーになった本を松竹が映画化したもので、今年六月に公開される。昨年夏の撮影に使ったロケセットをそのまま保存し、観光用に随時公開している。小樽は北日本でも有数の人気ロケ地で、平成十三年にフィルムコミッションが結成されてから百本以上のテレビ・映画のロケ支援要請があるとのこと。盛岡も北日本ではロケ支援の多いところだが、ロケ支援要請は小樽三分の一程度だ。
 小樽は市民参加によるイベント振興がさかんだ。小樽運河を市民活動で保存を実現させた実績が背景にあるのだろう。冬のイベントである「雪あかりの路」の従事者も「フィルムコミッション」のエキストラも多くの一般市民が支えている。演劇のさかんな盛岡でもエキストラ登録の市民は七十名あまり。小樽は三百人を超し、ロケセット公開の受付案内もエキストラ登録者がボランティアで引き受けている。
 盛岡ロケで有名な映画は昭和十五年公開の「馬」(山本嘉次郎監督、高峰秀子主演)。半年も盛岡に滞在し、後世に残る感動的な映像を残した。祭りのシーンや馬検場のシーンでは多くの市民が協力したという。
 戦後では昭和三十二年の松竹映画「花くれないに」のロケが市民の話題をさらっている。小山明子、笠智衆らが出演した青春映画で、監督は田畠恒男。盛岡はオール野外のロケで高松の池、中ノ橋界隈、馬検場、岩手公園などの名所が撮影場所となった。一般市民のほか、盛岡一高、二高の生徒各二百人が制服のままエキストラとして出演。路上のデモシーンの撮影では中ノ橋付近が見物客と相まって大混雑となり、数時間にわたって交通が遮断された。当時珍しかった総天然色(カラー)の映画で、盛岡がふんだんに紹介されるということもあり、市民の期待は高かった。
 この昭和三十二年、旧盛岡劇場は谷村文化事業団により全面改装され、「谷村文化センター」として再出発した。同じ年、市民による演劇鑑賞組織「盛岡芸術鑑賞協会」(現・盛岡演劇鑑賞会)が発足、谷村文化センターで第一回目の鑑賞会を実現させた。

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盛岡文士劇2 2003.10.28(NO21)

 現在、十一月末は恒例の文士劇だが、かつての文士劇は概ね十二月の下旬、年末に行われていた。当時の新聞は「歳末吉例文士劇」とかいう見出しで紹介している。
 人気絶頂の文士劇は、稽古場風景も社会面で記事となることがあった。
 「人気高潮の文士劇・出そろった新顔名優陣・南部さんすっきりした海軍士官」「メイ演技に湧き返る・同情月間『文士劇』に人気集中」(以上昭和二六年「寒夜に汗する歳末サービス・文士劇おけい古高潮」「文士劇の熱演・けんらんの舞台に沸く・同情週間のフィナーレ」(昭和二八年)などの見出しがその人気の高さを伝えている。
 そうした記事の中に、県外在住者からの便りを伝えた面白い記事がある。昭和二七年十二月二十一日、文士劇当日の岩手日報だ。
 「話題を咲かす文士劇シーズン」という飾り見出しの下に「検事正から舞台俳優に・長谷川氏のプロマイド届く」と見出しが続く。戦中の盛岡地検の検事正で、盛内政志さんら当時の盛岡の演劇人の活動を支えた長谷川検事正が検事をやめて俳優になったという記事である。
 文士劇の稽古に励む鈴木彦次郎氏のもとに、旧友の長谷川氏から自身の役者姿のプロマイドが添えられた手紙が届き、同氏を知る人の間で話題となった
 私は検事をやめ、その後一時公証人になりましたが、それもすぐやめて目下同封写真のように旅役者になってミーハー族のかっさいをあびています。(中略)舞台の味は貴下も文士劇で十分たんのうされていると存じますがナカナカいいものですね。演出家よりもそして脚本家よりも、そして検事正よりも・・・(後略)」と手紙に綴られていたという。劇団を組織し、自作自演の芝居をもって全国巡業しているというからすごい。
 長谷川氏のことは、一昨年、この欄で紹介したが、盛岡赴任中も演劇活動の支援ほか、統制下にかかわらず、官憲ににらまれていた丸山定夫や園井恵子ら苦楽座(後の桜隊)の稽古鑑賞会開催をすすめた。氏は学生時代から演劇に興味を持ち、思想関係の検事であったことから、演劇界の思想統制で数多くの演劇人と関係し、自らも戯曲に筆を染めていた。
 手紙をもらった鈴木彦次郎氏も驚いた。「いやあ、びっくりしましたネ。芝居好きな人だとは思っていましたが役者になるとはネ。しかしあの人らしい。人格者でいかめしいところは一つもない親しめる人でした。夫人も常磐津の名取りでした」と記事は伝えている。
 長谷川氏がいつまで芝居をしたか定かではないが、鈴木氏をはじめ盛岡の芝居好きは昭和三七年まで文士劇を続ける。
 そういえば平成七年に復活した文士劇、今年の演目は。その鈴木氏原作の「常磐津林中」。林中を演じるのが作家の高橋克彦氏。高橋氏もまた大の芝居好きで、鈴木氏のあとを継ぎ、現在の文士劇を牽引する。

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盛岡文士劇1 2003,8,6(NO19)

 この欄で、戦中の盛岡の演劇に理解を示した地検の長谷川検事正について記述したことがある。盛内政志さん(故人)や真木小苗さんとも親交があり、昭和二十年、統制下にもかかわらずつなぎ温泉に滞在中の園井恵子、丸山定夫(当時・官憲から要注意人物とされていた)らの劇団の練習を県公会堂で公開することを勧めた、その人である。
 その長谷川さんの戦後の消息が昭和二十七年の新聞に載っている。十二月二十一日の岩手日報だ。文士劇を間近に控えた鈴木彦次郎さん宛の手紙が紹介されている。
 鈴木彦次郎さんは小説家で、当時、県教育委員を務めていた。盛岡文士劇の創始者のひとりでもある。文士劇は昭和二十四年にはじまり、その年で四回目。毎年、満員の盛況復活して今年で九年目を迎える。当初は、復活第一回、復活第二回という具合に、復活という呼称を付していたが、今は省いている。
 戦後間もなく始まったかつての文士劇は、昭和二十四年にはじまり三十七年に幕を閉じた。はじまりは「盛岡市民が喜ぶようなものをやろう」と作家の鈴木彦次郎氏らが発起人になり、画家や名士、演劇人や芸者衆たちが加わった。歳末の盛岡の風物詩として大変な人気だった。幕を閉じた理由はなんだったろうか。盛岡劇場物語に文士劇の記録が詳しいがやめた理由は記されていないが、不入りが原因ではなさそうだ。マンネリだろうか。事務局や世話係の疲弊だろうか。
 復活文士劇も十年近くたち、市民の人気も高い。第一回の口上で桑島博盛岡市長は「文士劇を盛岡の冬の風物詩にしたい」と述べた。チケット発売日即日完売の人気は、他のイベントを圧している。高い人気は支えているのは、高橋克彦さんや畑中美耶子さんら常連の芸達者や時々の来盛ゲスト、陰で支える作家・演出家らスタッフの尽力である。しかし、長期の継続は組織なり運営に何かしかの疲労を蓄積させる。盛岡の風物詩として長く市民に愛され続けていくためにも、もう一度、文士劇を検証してみよう。
 復活文士劇は、平成七年、(財)地域創造の助成を得て「演劇の広場づくり事業」のメニューの一つとして始まった。
 それまで、IBC岩手放送の会長だった故河野逸平氏や斉藤五郎氏(前盛岡演劇協会長)が復活に向けての運動を試みていたが、なかなか関係者の理解が得られなかった。「県民会館」での実施で固執していたことと、どこが事務局を引き受けるかということが障害となっていた。
 多くの文士や演劇関係者は、大ホールでの文士劇に二の足を踏み、公会堂か盛岡劇場でなければ文士劇を復活させる意義を見いだせないと思った。県民会館の大ホールで復活しても、それは名士を利用した新しい集客イベントに過ぎず、盛岡の文化の復活ではないと思った。
 文士劇の出演者には出演料がない。手伝いのスタッフも半分はボランティアでの参加である。文士劇に参加することは「思い」という背景が必要なのである。
 「文士劇を盛岡劇場でどうか」と劇場職員を促したのが、当時、助役だった桑島市長だった。ここから全てが動き始めた。高橋克彦氏が賛意を示し、戦後の文士劇における鈴木彦次郎氏の役割である座長格となった。河野さんのIBCは赤字覚悟で舞台中継を引き受けた。斉藤五郎さんは事務局長となり、盛岡劇場が事務局を担当。演劇界の中堅リーダーたちが舞台をまとめた。
 内容は二部構成。一部が現代劇の盛岡弁芝居。アナウンサーに盛岡弁で芝居させるという試みが当たった。二部は懐かしい時代劇。はじめは「台詞を間違って笑われた」文士・名士も回を重ねる毎に上達した。進行、小道具、プロンプターなどは演劇人が支えた。

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高校演劇 2003,5,30(NO15)

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岩手芸術祭 2002,11,28(NO13)

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青年演劇と地域演劇 2002,10,8(NO11)

 

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宮沢賢治歩く 2002.5.21(NO11)

 五月三日、盛岡劇場から花巻まで歩いた。およそ四十㌔、午前七時に出発し、午後四時半に花巻市文化会館隣の「ぎんどろ公園」(宮沢賢治が教師をしていた旧花巻農学校跡地)に着いた。
かつて、宮沢賢治は盛岡劇場で観劇後、花巻まで歩いて帰ったそうだ。赤い風の元気な女優に「盛岡劇場から花巻まで歩こう」と誘われた時、宮沢賢治が歩いたコースを辿るのも面白いと思った。本論からはいささか外れるが、ちょっと賢治のことを振り返ってみたい。記録によると、賢治は二円を懐中に盛岡に出かけた。大正十二年五月初旬。入場料が一円、夕食代が五十銭、汽車の片道分が五十銭と、帰りの汽車賃を持っていなかったという。賢治全集ではこの時見た芝居は、東京大歌舞伎(前月末、北上で上演していることから)ではないか、と推測しているが、この時期、盛岡劇場では「日本少女歌劇団」公演(五月一日~六日)が行われている。
 賢治は夜十時、盛岡劇場を発ち、翌朝七時に花巻農学校に着いたそうだ。岩手山登山で鍛えた健脚だから40㌔程度の行脚はそれほど特別なことではなかったとは思うが、深夜である。自動車のない時代だから、見えるのは「月夜の電信柱」や列車の「シグナル」などか・・(まるで賢治作品だ)。国道沿いの松並木は賢治に何を語りかけたのだろうか。
 賢治は友人と二人で歩いたそうだが、平成の私たちは全部で七名、うち二名が山沿いの別コースで花巻に向い、一名が石鳥谷から合流した。深夜ではなく日中に歩いた。私たちは岩手山登山で鍛えた健脚の賢治ではない。気を張って歩かないと挫折しそうになる。
 大正十四年、県の公会堂建設費捻出のため、国道の松並木を切ろうという話しが出た時、賢治は反対した。今その松並木はほとんど姿を消している。ひっきりなしに行き交う車に閉口する。賢治と同じ夜に歩いても月明かりより車のヘッドライトが気になっただろう。
 賢治はこの時以外にも長距離を歩いている。前々月の三月、一関までハイキングし歌舞伎を見ている。また、同じ年の八月十二日、北海道、樺太旅行からの帰りに盛岡から花巻まで歩いている。この時は本当にお金がなくなってのことだったらしい。しかし、前年十一月に最愛の妹トシが亡くなっている。傷心の賢治は何かを求めていたのではなかろうか。この年、賢治は「シグナルとシグナレス」「精神歌」「植物医師」「オホーツク挽歌」「青森挽歌」などを発表している。
 同じ年、関東大震災があり、東京の芝居小屋も大きな被害を受け、地方巡業が多くなった。賢治の観劇機会も多くなったに違いない。しかし、この頃から、演劇統制も強まり(平成十四年学校演劇禁止令)、演劇が自由を取り戻すのは、東京が二度目の廃墟を経験する昭和二十年まで待たねばならなかった。

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戦中から戦後の盛岡の演劇(NO7)

 秋は芸術の秋。今年で五十四回目を迎える岩手芸術祭は演劇、美術、音楽、文学など芸術文化全般にわたる三十七部門の参加で盛岡を中心に県内で広く開催され、秋の風物詩の一つとして親しまれている。
 この岩手芸術祭、草創期の運営に奔走した一人に故盛内政志さんがいる。戦争末期から中断していた演劇公演が復活したのが、昭和二十一年秋。盛内政志さんらの盛岡演劇会による「ドモ又の死」などが行われたことは前号に記されている。戦後、昭和二十二年までの間に「盛岡演劇会をはじめ三つの劇団が活動を開始しているし、昭和二十三年になると劇団数は五つ」(盛内政志談)。プロ劇団を目指した表現座が二十二年、詩人部落が二十三年に公演を行っている。職場演劇や学生劇団も続々と誕生している。
 さて、芸術祭だが、国(文部省)の芸術祭は昭和二十一年に始まっている。会場は東京の帝国劇場など。翌年には岩手県で始まったわけだから、極めて早い。全国では栃木県に次いで二番目の開催だ。
 盛内さんは芸術祭開催の機運を次のように語っている。「敗戦をを境にして、それまで言いたいことも言えず小さくなっていた芸術家や自由を愛する人たちが時々県立図書館(当時の館長・鈴木彦次郎)に集まって話し合いをしてたんです。これからの日本は我々がどうにかしなければならない。私たちの時代だ、と気炎をあげていた。それが二十一年の暮れ頃、誰言うこともなく、皆で組んで芸術祭をやろうということになったんです」(岩手芸術祭五十回記念座談会から)
 戦中は大政翼賛会文化報国会としての活動以外は規制され、音楽にいたっては昭和十八年の歌舞音曲停止令によって、慰問等の活動以外は事実上停止の状況だった。盛内さんは「敗戦以前の二十年四月一日に、文化報国会を脱退、すぐに公演が出来るわけもなく、密かに勉強しているうちに敗戦になった・・・美術、文化などにおいても戦中から小さなグループがあって、制約された中だが、゛そこむし゛に活動していたんです」(同座談会)゛そこむし゛とは「黙々」という意味に近いが、もっと底しぶとくとかジックリと秘めた思いをこめながら、といったニュアンスが含まれる。だからこそ、戦後、束縛から解放され、一斉に表現の世界に人々は引込まれ、その思いが芸術祭開催の情熱につながっていったに違いない。当時、二十代の盛内青年は、鈴木彦次郎、深沢省三橋本八百二といった先輩方とともに芸術祭開催に奔走した。
 第一回芸術祭が終わってまもなく新岩手日報(当時)が参加各分野の代表者格を集めて座談会を開いている。これにも盛内さんが参加している。
 席上、画家の橋本八百二さんは「芸術は、産業経済あらゆる部面に日常生活と切っても切れないものであることを知らしめなければ」同じく深沢省三さんは「芸術祭は単なる催し物ではない。芸術と市民を結び付ける企てだ」と述べている。盛内さんは「劇団にテーマを与えて公演させたら」という新聞社の提言に「テーマというより、いいものを作るため各劇団から優秀人を集めて一つの舞台に」といわゆるプロデュース公演を模索した答えをしている。興味深い。

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戦時下の盛岡の演劇状況(NO5)

 岩手県芸術文化協会名誉会長長の盛内政志氏(岩手県演劇協会顧問。以下本文中、敬称略)が六月十一日、八十一歳で亡くなった。岩手・盛岡の近代演劇の幕開け時代を築いた演劇人の一人である。
 この「いわて演劇通史」の企画の立上げに際し、本誌編集委員会が「幕開け」の当時を知る三名の方による座談会を催した。盛内、沢野耕一郎、真木小苗である。私も聞き役として出席した。演劇通史2,3で述べた園井恵子や長谷川検事、翼賛文化報国会のことなどが、この会で語られた。昨年の六月十日の夜ことである。盛内は、ちょうどその一年後に亡くなったことになる。ここでは、盛内の談話を中心に、盛岡の戦中の演劇事情を振返ってみたい。
 盛内は、昭和十八年九月、明治大学を卒業、盛岡中劇に入社。文化報国会演劇部の活動に参加するのは、旧盛岡劇場で行われた第三回公演「太平洋の風」(八木隆一郎作、盛内政志演出)からだ。もっとも座談会での盛内談によると「学生時代から帰省の際、芝居を見ていて、陰ながらバックアップしていた」という。第一回公演は七月二十五日(貝殻島、村の飛行兵)だから盛内は夏休みの帰省で観劇している。昭和十九年から演劇活動に参加した盛内の役割は、チケットを捌くことや演出が中心。戦後間もない頃は二十代の若さで、盛岡演劇会の活動や、岩手芸術祭・盛岡文士劇の開催などで、主に世話人代表的な役割を務めている。
 戦中の演劇の稽古場事情はどうだったろうか。「大勢の人が集まってがやがや騒ぐ、大声をあげて怒鳴り散らすようなのに提供するところはなかったので、小さくなって借りて歩いた」(盛内談)当時、岩手文化協会の細川幹事長(公会堂多賀)が経営していた「味のデパート」(旧陸中銀行)や細川宅の離れが主な稽古場だった。盛内は学生時代から岩手文化協会の幹事をやっていた。盛岡劇場物語の年譜に「昭和十七年七月十二日、岩手公園で岩手文化協会第一回野外劇大会」とある。盛内は「これは演劇運動とは呼べない」と明快。ちなみ細川幹事長は、長岡輝子と幼稚園の同級生で、昭和十八年三月の文学座公演(盛岡劇場)のため奔走している。長岡輝子のほか、杉村春子、中村伸郎、森雅之らが出演している。
 報国会演劇部は、盛岡放送局の放送劇研究会を中心に芝居好きの仲間が一緒になって結成されるが、その中核にいたのが放送局の職員、茂木亮戒。報国会演劇部の初代部長である。旗あげ公演の「村の飛行兵」を演出している。真木小苗はこれが初舞台。茂木は昭和十九年に釧路に転勤。その後、盛内や放送劇研究会出身の沢野らが演劇部の中心になる。ちなみに、戦中の芝居の舞台装置は厨川の佐藤徳松。豊かな農家の出身で、報国会演劇部の殆どの舞台装置を担当した。
 戦争も終盤となってきた昭和二十年、盛内は、東京から珍しい疎開客を迎える。三百年以上の歴史を持つ糸あやつり人形芝居の「結城座」一家である。結城座は、中劇で映画の幕間アトラクションに出演していたこともあり、中劇を頼って、まず人形を盛岡に疎開させていた。
 一家は当初、仙台に疎開する予定で東北線の列車に乗り込んだ。しかし、仙台駅でどうにも胸騒ぎを覚え、当主の妻、竹本素京の提案で盛岡まで足を伸ばした。

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長谷川検事正のこと 2001,4,20(NO3)

 盛岡の近代演劇の幕開けは、昭和十八年七月二十五日に盛岡劇場で行われた県翼賛文化報告会演劇部の公演「村の飛行兵」「貝殻島」であった(盛内政志談)と言われている。その「村の飛行兵」で初舞台を踏んだ現在最高齢の女優の真木小苗は「当時は翼賛会でなければ芝居はできなかった」と語っていたが、前号で紹介した長谷川検事正は、この時期盛岡に着任していない。演劇や文化に理解があった長谷川は盛岡でどんな演劇に出会ったのだろうか。「とてもよくしてもらった」という当時初舞台を踏んだばかりの真木小苗に長谷川の印象を聞いた。
 「きりっとしたお洒落な方で、随分年が離れていたから、かなりの叔父さんという印象だけど、一度、芝居を見に盛岡劇場に連れて行ってもらったことがあって、 二人で一階の桟敷に座っていると、二階から検事正に芸者さんが声を掛け、検事正は手を振って応えるんです。もてたんでしょうね。それから、転勤で盛岡を離れるとき、演劇仲間たちから託されてお別れの記念品かなにか贈り物を持って行った記憶があります」(真木談)
 真木と放送劇団の頃から一緒に芝居をやっていた沢野耕一郎は更に検事正についてこう語っている。「長谷川さんは芝居が好きな人だった。ご自分でも芝居を書く方でね。ほら、裁判劇というやつ、そういう芝居の原作を書いていたんだ」
 長谷川検事正が盛岡を離れるのが昭和二十年四月。長谷川の人事異動と関係があるどうかわかないが、その四月一日に演劇部は翼賛文化報国会会から脱退している。沢野は三月に出征しているのでその事情はわからない。しかし、翼賛会に入らないと芝居が出来ない状況ではあったはずだ。その事情を盛内政志は次ぎのように語っている。「戦争に利用されたくないということです。勇気が要りました。大ぴらに芝居ができなるかもしれないと判っていましたから。それでも脱退して、盛岡演劇会を正式に結成したんです」
 記録では、盛岡劇場で最後に演劇が行われたのが昭和十九年十一月十二日、文化報国会の「太平洋の風」。「太平洋の風」は好評で、二週間後の二十六日、県公会堂で再演、翌月十日、陸軍病院でも上演している。その後、昭和二十年一杯、演劇公演の記録は見当たらない。
 前号で記した長谷川検事正がけしかけた「公会堂での苦楽隊・秘密の公開稽古」が行われたのが二十年の一月。園井恵子ら苦楽隊(後の演劇慰問団桜隊)は、東京での演劇活動がままならず園井が親戚づきあいしていたつなぎ温泉の愛真館を宿に三好十郎作の「獅子」の稽古に励んでいた。「 暗幕張った真っ暗なところで、獅子の稽古を見させていただいた。丸山定夫は詩を二編朗読してくれた」(盛内政志談)公会堂は警察署の真前にある。あたりを憚りながら公会堂に集まった演劇青年たちは目を輝かせながら丸山定夫や園井恵子らの一挙一動に演劇への夢を馳せていたに違いない。盛岡演劇会が正式に第一回公演を行うのは、文化報国会脱会から一年七ヵ月後の昭和二十一年十一月一日であった。

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長谷川検事正のこと 2001,2,20(NO2)

 新世紀を迎えて間もない一月十二日の午後、盛岡劇場・河南公民館の開館十周年記念市民講座「もりおか温故知新」が劇場のメインホールで行われ、生憎の雪模様にかかわらず四百人近い市民が集まった。
 かつて生姜町(現南大通り一丁目)にあった映画館「紀年館」(大正四年開館)のオーナー、円子正氏製作による記録映画「岩手の輝き」の上映会である。サイレント映画で、解説者兼弁士として太田幸夫盛岡劇場館長が登壇。朴訥ではあるがユーモア交じりで誠実な口調は会場を和ませる。
 上映された大正十二年の盛岡の風景は、以外にモダンである。旧盛岡劇場の完成が大正二年、旧盛岡銀行(現岩手銀行中ノ橋支店)は明治四十四年、大正十一年には、県立図書館が落成している。この年は九月に関東大震災が起き、秋から冬にかけて、盛岡劇場では幡街芸妓演芸会や太田カルテットの音楽会などが震災被災者救援のために開催されている。この時期、盛岡劇場での演劇といえば、歌舞伎や新国劇の公演のほか、芸妓衆の演芸会の出し物や曾我廻家一座の喜劇興行が多い。花巻農学校教師の宮沢賢治は花巻から盛岡劇場に幾度となく通ったという。演劇好き、音楽好きの賢治に盛岡劇場は大きな影響を与えたに違いない。
 盛岡劇場が出来て十年、大正の十年も、今日、平成の十年も盛岡は舞台文化が華やかに輝いていた。前の号で共著者の藤原正教が「東北に行ったら必ず盛岡劇場に立ち寄れ」と大正時代の旧盛岡劇場を紹介したが、平成の現盛岡劇場もまた全国の演劇人やホール関係者に理想の芝居小屋として認知されている。 旧盛岡劇場が出来て今年で八十八年。盛岡の舞台文化の歴史は盛岡劇場とともにあった。先人の舞台に対する深い愛情と労苦に感謝するとともに、劇場に関わる職員の方々も、演劇人をはじめとする盛岡の舞台関係者もこうした思いや歴史を継承する努力を怠ってはなるまい。。 さて、先人の中で、演劇に深い思いを寄せた人物を一人紹介しよう。
 盛岡地方裁判所(当時は裁判所の中に検察部門があった)の検事正だった長谷川瀏である。長谷川は昭和十八年十二月から二十年四月まで盛岡に赴任しており、その後、最高検検事になっている。明治二十四年八月の生まれだから、盛岡在住当時は五十歳半ば近くだった。
 岩手県芸術文化協会の盛内政志会長は、劇団盛岡演劇会の創始者の一人で、戦後間もなく、岩手県芸術祭や盛岡文士劇の立ち上げに尽力したことで知られているが、長谷川検事正について、こう語っている。
 「検事正さんは、戦前は閣下と呼ばれていた。県内で閣下と呼ばれる人は、裁判官や軍隊の少将以上の方など、ほんの一握りの人だけで、当時二十代の我々からすると、とても偉い人だった。その偉い人が、当時、特高などにも睨まれていた丸山定夫や園井恵子など苦楽隊(後の演劇慰問団桜隊=広島の原爆で被爆)がつなぎ温泉の愛真館に見を寄せていたとき、県公会堂でのお忍びの公開稽古の企画をけしかけたんですよ」
(以降の長谷川検事正の話は次号に続く)

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